後年の政治キャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/18 14:25 UTC 版)
「フアン・コルティナ」の記事における「後年の政治キャリア」の解説
1862年、フランスによるメキシコ侵攻の端緒となったプエブラの会戦ではイグナシオ・サラゴザ将軍率いるメキシコ軍に参加し、フランス軍撃退に一役買ったが、その後フランスが盛り返してメキシコシティーを占領する過程では一時的にフランス側に与し、タマウリパス州での自分の地位を確固なものにした。そしてすぐにまたメキシコ側に立ち、私兵を組織してタンピコに上陸しようとしたフランス軍を撃退するなどの戦果を挙げ、メキシコからのフランス軍掃討に貢献した。ケレタロでの皇帝マキシミリアン処刑(銃殺)も現場で立ち会った。この間(メキシコ帝国時代)、メキシコでは政府関係者不在の状態が続いたため、1864年と 65年の 2 度、コルティナは自らをタマウリパス州知事および北部メキシコ軍の将軍に任命した。66年にも同様なことを行ったがこのときはタピア将軍に従って辞任した。 1870年、コルティナが再び国境付近に戻ってきたときには、彼に対するテキサスのアングロ人の感情も変わってきていた。すなわち、南北戦争で北軍に協力し重要な役割を果たしたというもので、これによりブラウンズビルでの行事に何度も来賓として招待され、ついにはブラウンズビルの前市長を含むリオグランデ谷地域の有力者 41 人の署名を集めて、コルティナ戦争における犯罪容疑の赦免嘆願が行われた。この嘆願は 1871年、州議会の第二読会で否決されてしまったが、コルティナはメキシコ系及びアングロ系双方から同情された。メキシコ側においても同様で、彼は准将に任命され、タマウリパス州最大の部隊を「コルティナ部隊」と命名するほどであった。
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