後年の失われた映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:46 UTC 版)
改良された35mmの安全フィルムが導入されたのは、1949年であった。これ以降、安全フィルムは、ナイトレートフィルムよりもはるかに安定したものとなり、1950年ころ以降はフィルムが失われることは比較的少なくなった。しかし、かなりの範囲のカラー映画における色褪せや、ビネガーシンドローム (vinegar syndrome) が、これ以降のフィルム保存の取り組みを苦しめることになった。 1950年代以降、ほとんどのメインストリームの映画作品は失われることなく保存されるようになったが、初期のポルノ映画やB級映画の中には、失われてしまったものもある。そうした例は多くの場合、世間に知られない映画作品が誰にも気づかれないまま、わからなくなってしまうというものだが、中には名の知られたカルト映画の監督たちの作品でも失われてしまったものがある。 ケネス・アンガーが、その経歴の様々な時点で制作した映画作品の中には、様々な理由から失われてしまったものがいくつもある。 エド・ウッドの1972年の映画『The Undergraduate』は失われており、1970年の映画『Take It Out In Trade』は、音が付いていない断片だけが残されている。1971年の映画『ネクロマニア(Necromania)』は、長年の間、失われたものと信じられていたが、1992年に、編集されたバージョンが個人の売りたてから発見され、さらに編集されていない完全なプリントが2001年に発見された。2004年には、やはりそれまで失われたと思われていたウッド作のポルノ映画『The Young Marrieds』の完全なプリントが発見されている。 トム・グラフ(英語版)が初めて長編に取り組んだ1955年の映画『The Noble Experiment』は、グラフが監督や脚本を務めたうえ、誤解されている天才科学者を演じた作品であったが、長く失われたとされていた。これを発見したのは、グラフについてのドキュメンタリー映画『The Boy from Out of This World』を制作したエル・シュナイダー(英語版)であった。 アンディ・ミリガンの初期の映画作品の大部分は、失われたものと考えられている。 スポンサード映画(英語版)と総称される、1940年代から1970年代にかけて教育、訓練、宗教などの目的で制作された多数の短編映画は多くが失われたが、これは、この種の映画が一時的に使い捨てされるもの、内容が後々更新されて作り直されるものと考えられていたためである。 ジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポーの初期の出演作は失われたと考えられているが、2人にとっての映画デビュー作である『大小黄天覇』は2016年に再発見された。 フィンランドのメロドラマの俳優、映画監督テウヴォ・トゥリオ(英語版)が手がけた最初の作品3本は失われており、さらにフィンランドの映画の歴史家の関心を引くであろう数本の作品は、1959年にヘルシンキのアダムス・フィルミ(英語版)社の保管庫火災によって焼失した。 場合によっては、映画の特定の面だけが失われるという事態も生じる。初期のカラー映画であるルシアン・ハバード(英語版)が監督した『竜宮城 (The Mysterious Island)』や、ジョン・G・アドルフィ(英語版)が監督した『The Show of Shows』は、着色されたものはまったくあるいは部分的にしか残されていないが、これはフィルムの複製が白黒版でしか残されなかったためである。(en:List of early color feature films:参照) 1954年に制作された立体映画である『Top Banana』と『Southwest Passage』の2本は、左右いずれか片方の眼のためのプリントしか残されておらず、平面的な形態でしか現存していない。
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