コルティナ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/18 14:25 UTC 版)
「フアン・コルティナ」の記事における「コルティナ戦争」の解説
1859年7月13日、コルティナとブラウンズビル当局者の緊張はついに暴力という形で爆発した(第一次コルティナ戦争)。この日、ブラウンズビルの保安官であるロバート・シアーズがコルティナの元使用人であるトマス・カブレラ(コーヒーショップで酔って暴れていたといわれる)を痛めつけているところにたまたまコルティナが通りかかった。コルティナがこの一件は自分に預からせてくれと頼んだが、保安官が「メキシコ人の癖して何を言ってやがる」と答え、暴行を止めなかった。コルティナが空に向けて威嚇射撃を行ってもシアーズ保安官はまだ暴行を続けたため、今度は肩を撃った。そしてカブレラを馬に乗せて町を出た。翌週以降、緊張が高まっていき、ついに 9月28日、コルティナは 40 ないし 80 人の手勢でブラウンズビルを襲撃・占領した。この襲撃で、彼がその敵として捉えたいと思っていた者のほとんどは既に町から逃げ出してしまっていたが、1 人の刑務所看守を含む 5 人をメキシコ人虐待のかどで処刑した。 ブラウンズビルの有力者数名がリオグランデ川を渡りマタモロスを訪れ、コルティナに影響力を持つホセ・マリア・カルバハルに面会して説得を行った。コルティナは了解して 9月30日にはキャメロン郡のサンタ・リタにある自分の牧場に引き揚げた。この引き揚げに際して声明文を発表した。内容はテキサスに住むメキシコ人の権利を主張し、この権利を侵すものは罰せられることを要求するものだった。ブラウンズビルではコルティナが撤退した直後に町の有志 20 人ほどで「ブラウンズビル・タイガース」と称する自警団を結成し、また、アメリカの報復を恐れたマタモロスからも民兵が送られてこの自警団に加わった。この自警団は町に舞い戻ったトマス・カブレラを再逮捕した。 11月に入りブラウンズビル・タイガースはコルティナが数マイルしか離れていないサンタ・リタの母親の牧場にいることを突き止め、メキシコから送られたキャノン 2 門を装備して襲撃を行った。しかしコルティナ軍に簡単に敗れ、キャノンまでも鹵獲されてしまった。コルティナはカブレラを釈放しなければ町を焼き払うと警告した。その直後にウィリアム・トービンが率いるテキサス・レンジャーの中隊 (Company) が合流したが、彼らは規律も何も無いゴロツキ集団であり、翌日には状況を考えずにカブレラを吊るし首にしてしまった。さらにコルティナの潜む農場の襲撃を試みたが、これまたあっさりと撃退されてしまった。11月23日にコルティナは第二の宣言を発表した。内容はテキサス州知事サミュエル・ヒューストンに宛てたもので、テキサスに住むメキシコ系住民の財産の正当な保護を訴えるものだった。12月になるとテキサス・レンジャーの別部隊(ジョン・フォード指揮)が合流した。こちらは人数も多く、かつ統制がとれていた。さらにサミュエル・ハインツェルマン指揮の合衆国陸軍も到着した。12月7日、フォードとハインツェルマンの合同軍はコルティナ軍と会戦し(リオグランデシティの戦い)、コルティナ軍は 60 人以上の犠牲者を出し完敗、コルティナはメキシコのブルゴス山中に逃げ込み、第一次コルティナ戦争は幕を閉じた。 その後 1 年以上、コルティナは姿を現さなかったが、テキサスが合衆国を離脱し南北戦争が勃発した 1861年、北軍協力者になったコルティナがザパタ郡のカリーゾを襲撃した。これが第二次コルティナ戦争と呼ばれることがある。この襲撃はサントス・ベナビデス率いる南軍部隊とのカリーゾの戦いで敗北を喫し、18 人を失い再びメキシコに逃げ込んだ。コルティナによる米国内における組織的な戦闘はこれ以降発生していない。
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