テキサス独立革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:51 UTC 版)
「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」の記事における「テキサス独立革命」の解説
詳細は「テキサス独立戦争」を参照 メキシコ中央政府に不満をしめした他の州のように、コアウイラ・イ・テハス州のテキサス郡は1835年の末に反乱を起こし、1836年3月2日に独立を宣言した。 サンタ・アナは無慈悲な軍事力を見せつけて、テキサスをメキシコの支配下にもどすために北へと遠征した。彼の遠征は兵力、輜重、兵糧、戦略について彼が準備していた以上の問題を提起し、無残な失敗に終わった。 軍を設立し、組織し、装備させるために、彼はしばしば裕福なものから私的な融通を強いていた。スペイン語を解せぬ先住民と並んで浮浪者や元受刑者をかき集めて、彼は徴兵を急いだ。 彼の軍は伝統的な食事の欠如に加え、熱帯の気候にしか備えていなかったので、寒さに苦しんだ。補給路が以前より遠くに伸び、馬、ロバ、牛と車両が不足し、食糧と飼料がほとんど底をついた。 医師の数は最小限しか用意しなかった。兵士の間に、もはや自分たちの死体を埋葬する神父さえいないとわかるにつれて、士気は低下していった。 先住民は落伍者を攻撃した。水源は汚染されており、多くのものが病になった。 彼の参謀組織が弱かったゆえに、サンタ・アナはこれらの課題があることに気づかず、軍事力の誇示と何件かの虐殺(アラモやゴリアドのような)を行えば、反乱軍が命乞いをするように追い込めるだろうとする自信があった。 1836年の3月6日、アラモの戦いでサンタ・アナ軍は189人のテキサス防衛隊員を殺し、ゴリアドの虐殺でジェームス・ファニンを含む342人以上の捕虜を処刑した。これは彼が若かりしときメキシコ独立戦争で目撃した方法に似ていた。のちに彼はゴリアドの虐殺は部下の責任だとしている。 アラモ砦の敗北は、サム・ヒューストン将軍とその軍の時間稼ぎには貢献した。ヒューストンとその軍は「ゴリアドの恨み!アラモの恨み!(“Remember Goliad, Remember the Alamo!”)」と叫びながらサンタ・アナを1836年4月21日にサンジャシントの戦いで破り、4月22日にジェームズ・シルベスター率いるテキサスの小部隊が竜騎兵の一兵卒の服を着て沼地に隠れていたサンタ・アナを捕縛した。 テキサス共和国大統領デーヴィッド・ガヴァヌーア・バーネットとサンタ・アナは「ベラスコ条約」に調印した。「メキシコ国民の代表として公式に、テキサス共和国の全面的かつ完全な独立を承認する」とし、テキサス内のメキシコ軍を撤退させた。それと引き換えにテキサス政府はサンタ・アナの生命の保障とベラクルスまでの帰還を保証した。しかし、首都メキシコシティに戻ると新政府はサンタ・アナはもはや大統領ではなく、テキサスとの条約は無効であると宣言した。 テキサスの捕虜になっている間にジョエル・ロバーツ・ポインセット —アメリカ合衆国駐メキシコ公使— はサンタ・アナ将軍の状況に厳しい評価をくだし、 サンタ・アナ様へ、10年前のあなたが自由の提唱者であったことをよく覚えていますが、いまでは同情を感じません。あなたは自分の行いに対する報いを受けたのです。 と述べ、これに対しサンタ・アナは以下のように返答している。 ポインセット様へ、私が大いなる熱情とまったき誠実とともに自由のために立ち上がったのは真実です。しかし、わたしはその愚かさがすぐに分かったのです。 来たるべき100年に、わが人民は自由に適合しません。彼らは自由を何たるかを知らず、そのまま無知蒙昧であり、カトリック聖職者の影響下にある現状では、独裁が彼らには適正な統治体制なのです。しかしそれが賢明で有徳のものにならないだろうという理由はありません。
※この「テキサス独立革命」の解説は、「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」の解説の一部です。
「テキサス独立革命」を含む「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」の記事については、「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」の概要を参照ください。
- テキサス独立革命のページへのリンク