むすめどうじょうじ〔むすめダウジヤウジ〕【娘道成寺】
読み方:むすめどうじょうじ
娘道成寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:37 UTC 版)
『娘道成寺』(むすめどうじょうじ)とは、歌舞伎舞踊の演目のひとつ。またその伴奏音楽である長唄の曲のひとつ。今日では、『京鹿子娘道成寺』(きょうがのこむすめどうじょうじ)が正式な外題である。
- ^ ただし渡辺保は富十郎が『娘道成寺』を初演したのはこの時ではなく、前年の宝暦2年(1752年)、京都嵐三右衛門座(京都北側芝居)において『百千鳥娘道成寺』の外題で踊ったのが最初であるとしている。『娘道成寺(改訂版)』(渡辺保著 駸々堂、1992年)93頁以降より。
- ^ 江戸期の歌舞伎作者。初め三代目澤村宗十郎に役者として弟子入りしたが、享保20年(1735年)作者に転向し澤村斗文と称す。元文2年(1737年)藤本姓に改め中村座や市村座の狂言作者として活動した。『京鹿子娘道成寺』は斗文の代表作である狂言『男伊達初買曽我』の所作事として上演された。
- ^ 初代中村仲蔵はその著書『所作修行旅日記』の中で、『娘道成寺』は中村傳次郎が振付けをしたものだと記している。この中村傳次郎は仲蔵が養子に行った志賀山家(志賀山流)の人物で、中村座専属の振付師だった。
- ^ このあと寺の住職が出て、所化たちに高札を渡す場面があったが現在は出ない。また所化の人数はもとは二人ないし四人であったが、現在のように大勢で出るようになったのは、九代目市川團十郎が演じて以降のことだという。この所化は、襲名披露の上演の際は幹部俳優が御馳走(特別出演)で出る。
- ^ 古くはこの道行での振袖は赤地であったが、六代目尾上菊五郎が演じたとき、黒地に梅と糸巻などの模様に替えて以降、道行で振袖を黒地にするのがもっぱらとなった。ただし模様は霞に枝垂桜とすることが多く、これは後の第三段での振袖と同じ意匠である。
- ^ 一番新しい例では平成20年(2008年)12月の歌舞伎座昼の部の公演で、十代目坂東三津五郎が道行を常磐津『道行丸い字』(みちゆきまるにつのもじ)で演じている。この第一段の道行は古くは上演する度に書き直したもので、その時の役者によって常磐津になったり富本になったりしたが、義太夫のもの以外に現在にまで伝わっているのはこの『道行丸い字』だけだという。ただしこの道行については、これとはまた別の常磐津によるものが楳茂都流と藤間流に伝わっているともいう。
- ^ 現行ではこの後も違う色の振袖に数回着替えて踊るが、七代目坂東三津五郎によれば、古くは『娘道成寺』で衣装を替えることは殆どなく、最初に赤地の振袖で出て、肌脱ぎとなり浅葱色の襦袢を見せ、さらにその襦袢を脱ぎ赤地の襦袢を見せて鐘入りになったという。また「引き抜きが型みたいになったのは九代目さん(九代目團十郎)以来でせう」と述べている。
- ^ この所化の踊りは九代目團十郎が踊ったときに付け加えたもので、本来は花子一人で第七段を踊った。このあとのチンチリレンの合方も九代目團十郎の時に加えられたもの。
- ^ 宝暦3年に富十郎が演じたときには、この第十一段のあとに石橋の獅子の所作があって第十二段の鐘入りとなった。
- ^ 『道成寺』(小学館、1982年)217 - 218頁、二代目市川翠扇の言。
- ^ そもそも劇中において「これはこの国のかたわらに住む白拍子にて候」とはいうが、名は述べてはいない。これは『娘道成寺』のもとになった能の『道成寺』も同様である。
- ^ 『歌舞伎・問いかけの文学』(古井戸秀夫著 ぺりかん社、1998年)306頁以降参照。
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