騒動の収拾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 01:26 UTC 版)
9月16日には新しい幹部を選ぶための評議員が選定され、また大隈の依頼で渋沢栄一・中野武営・豊川良平が事態の収拾に当たることとなった。 その後、9月26日、新たな維持員を迎えた維持員会によって校規改定正委員会の設置が決まり、渋沢栄一委員長、中野武営副委員長、平沼叔郎幹事が就任した。 大隈は天野らの処分を求めたが、渋沢・中野ら新維持員は消極的であった。結局、天野は12月2日に維持員を辞職し、早稲田実業学校校長に戻った。 中野が実質的に校規改定に指導力を発揮し、翌年の1918年9月2日付けで早稲田大学寄付行為の変更認可がおりた。そして、新校規に基づき、終身維持員として渋沢栄一、中野武営、高田早苗、坪内雄蔵(逍遥)、三枝守富、大隈信常が選出され、有期維持員として田中穂積、早速政爾、増田義一ら14名と功労者及び寄付者から松平頼壽、砂川雄峻、山田英太郎、平沼淑郎が選出された。10月8日に新たに選出された維持員によって維持会が開催され、平沼が学長に、大隈重信を総長に選出した。高田はその後も総長など要職を歴任している。また大隈はこの年に胆石症を再発させ、一月ほど病床についていたが、伊藤之雄はこの騒動のストレスが影響しているのではないかとみている。
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