ドメネク体制下の混乱、過渡期
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「サッカーフランス代表」の記事における「ドメネク体制下の混乱、過渡期」の解説
続投したドメネクはテュラムとマケレレを引き続き招集した。UEFA EURO 2008予選では最初にグルジアに勝利、更に2006年ワールドカップ決勝でPK戦の末敗れたイタリアにも勝利し、幸先の良いスタートを切った。2007年10月17日にはアンリの2得点でリトアニアを撃破。この得点でアンリはミシェル・プラティニの持つ代表最多得点記録を更新した。フランスはこの予選B組をイタリアに続く2位で終了。本大会ではまたもイタリアと同組、さらにオランダ・ルーマニアがいるという「死のグループ」に割振られた。フランスはバイエルン・ミュンヘンにおいてブンデスリーガMVPを受賞するなど中心選手に成長したリベリーを中心として、アンリ、テュラムやマケレレといったベテランとサミル・ナスリやカリム・ベンゼマなど準レギュラーとして定着した期待の若手を織り交ぜたチームでスイス、オーストリアで行われる本大会に臨んだ。しかし、初戦のルーマニア戦を0-0で引き分けると続くオランダ戦では1968年以降、公式戦における最悪のスコアとなる4-1で敗戦。3戦目のイタリア戦では早い時間帯でのアビダルの退場(PKを献上)、その直後のリベリーの左足首の負傷退場(全治2ヶ月)などの不運も重なり、2-0で敗戦。結果グループリーグで大会を去った。テュラムとマケレレは改めて代表引退を表明した。レイモン・ドメネク監督は采配や偏った選手選考を激しく批判されたが、フランスサッカー協会は「クラブ・フランス2010(2005年に創設された、フランス代表の管理議会)の監視下に置く」という条件付で監督続行を支持。 南アフリカワールドカップに向けた強化策として、かつてのワールドチャンピオンであったアラン・ボゴシアンをドメネクのスタッフに迎え入れた。2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選でフランスはルーマニア、セルビア、リトアニア、フェロー諸島、オーストリアで構成される第7グループに振り分けられた。ここではリベリーに加え、グルキュフやロリスらの若手を起用、ニコラ・アネルカも代表に定着し個々の能力は世界屈指と言われながらまたも苦戦し何度もドメネクの解任騒動が飛び出た。結局セルビアに続く2位で予選を終了。この結果、本戦出場に向けてプレーオフを戦わなければならなくなる。抽選の結果11月に行われるプレーオフではアイルランドと対戦し、アウェーでの第1戦は1-0で勝利するもののホームで行われた第2戦では大苦戦。先制点を決められ合計1-1で延長戦に突入した。その延長戦でアンリのアシストからギャラスが得点し本大会出場を決めたが、アンリのトラップが明らかなハンドであったことからアイルランド側が再試合を求めるなど、多くの物議を醸した。 2010年3月、本大会に向けホームのスタッド・ドゥ・フランスで行われたスペインとの親善試合では試合中に「ドメネク解任」コールや大ブーイングが起こるほどの醜態で完敗。監督の求心力低下に加え、リベリーやゴブーらの淫行疑惑、チーム内の人間関係悪化、一体感の無さなどが指摘され、プレー以前の問題を抱えたまま南アフリカ入りすることとなる。本大会グループリーグではA組の開催国の南アフリカ、メキシコ、ウルグアイと比較的恵まれた割り振りとされていたにもかかわらず、精彩を欠いた内容で初戦のウルグアイ戦を0-0で引き分けるとメキシコに2-0で完敗。また、この試合のハーフタイム中に怒りが頂点に達したアネルカが監督に暴言を吐いたとして強制帰国を命じられ、代表を追放される。その後アネルカは代表を引退した。これに反発した選手達がサッカー連盟への抗議として練習をボイコットする前代未聞の事件が起こってしまう。練習を求めるフィットネスコーチと主将のエヴラが大喧嘩、ドメネクが間に入って止めようとするもコーチは「誰のせいでこうなったんだ!」と激昂してグラウンドを立ち去り、チームディレクターが責任を取る形で辞任。騒動の収拾の為、ニコラ・サルコジ大統領が介入する事態にまで発展するスキャンダルとなった。チームは崩壊状態となりグループリーグ最終戦の南アフリカにも敗れ、2敗1分で勝点・得点共に1に終わり、グループリーグ最下位で敗退。ドメネクは特に2008年以降常に厳しい批判を浴びせられ、観客動員数が減るなど史上最も国民に嫌われた代表監督であった。ついにはワールドカップでチームを空中分解させ、フランス代表の権威は失墜してしまった。大会後、ティエリ・アンリが代表引退を発表した。 南アフリカW杯前、すでにフランスサッカー連盟(FFF)はローラン・ブランを後任として招聘することを発表していた。まずブランは南アフリカ大会に選出された代表選手23名を初めのうちはメンバー入りさせない事を発表した。新生フランス代表は2010年8月11日にノルウェーとの親善試合で再出発するが、この試合は2-1で敗れた。同年9月にはUEFA EURO 2012予選に突入。最終的にはベラルーシ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルーマニア、ルクセンブルク、アルバニアとの予選を1位通過した。親善試合を含め21戦無敗でポーランドとウクライナで行われたUEFA EURO 2012に臨んだ。初戦でイングランドに引き分け、開催国ウクライナに勝利し、記録を23戦無敗とした。しかし第3戦ですでに敗退が決まっていたスウェーデンに敗れ、一部選手と監督との口論が問題になった。辛うじて準々決勝に進出したがスペインに完敗し、ワールドカップ、EUROを通して公式大会で初めてスペインに敗れた。イングランド戦後にはナスリが記者に暴言を吐くなどの問題もあり、後味の悪い大会となってしまった。ブラン監督は大会後に退任し、後任にはフランス代表黄金期のキャプテンであり、オリンピック・マルセイユの監督を退任したばかりのディディエ・デシャンが就任した。
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