選手選考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 21:36 UTC 版)
ベルリンオリンピックの日本代表チームは、1935年7月8日にベルリンオリンピックの日本代表選手を選ぶ「詮衡(せんこう)委員会」が設置され、日本代表選考方針「詮衡綱要」を決めた。その内容は「過去から現在までの日本サッカー界の状況で考えれば全国選抜チームは不適当。(イ)“断然たる”チームがあればそのチームを主体として選手選考、(ロ)そのようなチームが無ければ、1つの地方協会を中心にして選ぶ」というものだった。当時の日本は社会人の全国リーグが無く、さらに関東大学リーグ王者と関西大学リーグ王者が対戦する東西学生蹴球対抗王座決定戦は関東が6連覇中だったため、関東大学リーグ戦が日本最高峰であるとみなされていた。そのため、1935年の関東大学リーグで全勝優勝した早稲田が日本の最優秀チームとみなされた。最終的に詮衡委員会は、「(イ)早大は最優秀チームだが、断然たるチームではない。(ロ)従って、早大のある関東のサッカー協会の選手を選ぶ。さらにそこに朝鮮人選手を加える」と決定した。 また当時は朝鮮半島が日本の植民地下にあったが、世界的に見ればレベルの低いアジアの中でもさらに低い方であった日本のサッカーのレベルに比べれば、相対的に朝鮮出身者のサッカーのレベルは高く、個人の実力重視で選考した場合は朝鮮民族が多くを占めるものというのが朝鮮サッカー関係者の予想だった。実際、朝鮮側が日本最高の大会と見なしていた1935年の第15回全日本総合蹴球選手権大会で、朝鮮蹴球協会から派遣された全京城蹴球団(英語版)が優勝した。しかし実際には、朝鮮民族選手は金容植と金永根の2名が選抜されるにとどまった。これを民族差別として、朝鮮蹴球協会から2選手に対して「日本代表としてオリンピックに出ることは、民族の自尊心を捨てることだ」と代表を辞退するような圧力もあった。金永根は選考過程に不満を示して代表チームの合宿に参加せず、金容植だけが「世界の舞台オリンピックで自分が活躍すれば、それは民族の力を世界に示す事になる」と代表チームに残った。金容植は攻守にわたって活躍し、奇跡の一端を担うことになった。
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