蹴球協会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:57 UTC 版)
現役引退後、社業に専念した。 東洋工業東京支社の経理課にいた経験を買われ、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)入りし、日本サッカーリーグ(JSL)創設の設立準備委員会の経理の担当者となり西村章一・長沼健・岡野俊一郎らと陣頭指揮を執り設立を実現させた。のち、初代JSL総務主事を務めた西村の後を受け2代目JSL総務主事として初期JSLの運営にあたり、同時に日本蹴球協会理事として協会の仕事もこなすなど多方面に活躍していた。 また協会在籍時の1968年、藤和不動産サッカー部(のちのフジタSC/ベルマーレ平塚、現・湘南ベルマーレ)の設立に黒木芳彦や石井義信らと共に携わっている。 1972年日本蹴球協会は法人化、1976年日本蹴球協会の政変、つまり大日本蹴球協会誕生以来半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心の協会がJSLを中心とする社会人チームの関係者(丸の内御三家)の手に移った事件、が起こる。これに重松も絡んでおり、牛木素吉郎は重松が首謀者であると推測している。
※この「蹴球協会」の解説は、「重松良典」の解説の一部です。
「蹴球協会」を含む「重松良典」の記事については、「重松良典」の概要を参照ください。
- 蹴球協会のページへのリンク