JSL総務主事とは? わかりやすく解説

JSL総務主事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 02:55 UTC 版)

森健兒」の記事における「JSL総務主事」の解説

1985年日本リーグ(JSL)の総責任者総務主事現在のJリーグチェアマン)、日本サッカー協会理事となり、協会プロ化案件提出日本のサッカーJリーグが始まる七年前、1986年から正式に選手のプロ化始まりJリーグ誕生前には日本トップリーグ選手のプロ化完了していた。は「JSLができてもう20年以上経っているのにずっと成果出ていなかった。それはサッカーだけじゃなくて日本のスポーツ全体問題でした。日本独特のアマチュアリズムという空気があって、それを錦の御旗掲げながらわずかしかいないメダリストたち自分たちのプレゼンス誇示して役職行き来しているだけです。そのくせ文部省ゴマばかりすって。そういう状況でそっちからの改革絶対にできっこないプロ化選手からやらなきゃダメだ考えていました。それにはまずプロ化ということを平気で論じられる空気にすることが大事だったんです」と話している。後のJリーグ構想は「もうプロ化するしかない」と発言始めたところから動き出したのである1986年社業名古屋転勤総務主事には留るが、事務局になかなか顔を出せなくなる。またに次ぐNo2的な石井義信日本代表監督抜擢されたことで、不在時には木之本JSL事務局責任者となり、木之本立場必然的に責任の重いものになる選手のプロ化進んでいったが、日本リーグ人気低迷続き日本代表チームも、1985年のワールドカップアジア予選1987年ソウルオリンピック予選と、連続してあと一歩」のところまで迫ったが、結局はアジア予選突破できず。日本リーグ所属チーム代表者による「実行委員会」や「運営委員会」の議論聞きながら、は「機が熟した」と感じJSL内に1988年活性化委員会プロリーグ化検討委員会)を設置、「スペシャル・リーグ」への移行打ち出す1988年3月17日JSL内で活性化委員会開催される5年後スタートするJリーグはこの瞬間から生を宿した会議骨格人選木之本の間で話し合われたが、会議の趣旨プロリーグ創設目指すものであることを対外的には伏せておく必要があった。選手のプロ化のときとは違い今度サッカー部存続直接関わってくる話であり、企業協会神経質になることは間違いない具体的な提案を出す前に圧力がかかるのを避けるため、会議の名称を「JSL活性化委員会」とした。メンバー9名は木之本二人で決めたもの。二人石井義信森孝慈小倉純二村田忠男、浅野誠也、杉山隆一佐々木一樹だった。委員長にはバランス重視して小倉指名したこの後このメンバーと後に加わった4人の計13人で討議重ね細部決定1988年3月17日に、この会議第1回会合が行われ、その後二週間おきに計6回会合開かれ同年7月21日最終報告書まとめてサッカー協会理事会提出した。この報告書26頁に過ぎなかったが、1993年発足したJリーグ基本理念のほとんどは、すでにこの中盛り込まれていた。川淵が正式に総務主事就任したのは1988年8月1日で、川淵は「1988年3月第一次活性化委員会で『スペシャルリーグ』の設立検討答申され、プロ化機運高まっていた」と話している。この年4月勤務先部長昇格していたは、社業激務連携不便さから5月4年サッカー離れサラリーマン生活を送っていた旧知川淵三郎後任総務主事抜擢した。川淵が正式に総務主事就任したのは1988年8月1日。川淵はたまにテレビ中継解説呼ばれるくらいで、サッカーはほとんど見ていなかった。が川淵を後継者にすることを決意させたのは、強化本部長時代見せた川淵のリーダーシップだったという。は「せっかくプロ化入り口くらいまで進めているのに、上の世代の人たちに従来やり方でやって欲しくなかった。川淵さんは少し考えさせてくれと言いました」「ただ川淵さんはおそらく古河電工役員として東京戻れると思っていたんでしょう。ところが東京に戻ることになったものの、本体古河電工ではなく系列古河産業出向だったんです。もしこれが本体役員だったら彼はそっちに行ってサッカーに関わっていなかったと思いますよ。権力志向の強い人だから。これからどうなるかわからないサッカーより彼はそっちを選んだでしょう」と述べている。川淵は「プロリーグ出発点JSL1988年2月立ち上げた第一次活性化委員会だ」と話しているが、川淵は7回あった「第一次活性化委員会」の会議の間は、サッカー離れて、まだ名古屋サラリーマンをしていて一度出席しておらず、活性化委員会参加は、この後川淵が正式に総務主事就任した直後1988年10月に、川淵が設置した第二次活性化委員会」からとなる。「活性化委員会」は、総務主事だった時代開催されたものを後に「第一次活性化委員会」、川淵が総務主事就任しらに倣い再開させたものを「第二次活性化委員会」と呼ぶ。この「第二次活性化委員会」が翌1989年6月解散し、川淵がJFA副会長になっていた長沼健要請しJFA内に「プロリーグ準備検討委員会」が設置されプロリーグ発足大きく前進した。この「プロリーグ準備検討委員会」は、委員長が川淵、副委員長が「第一次第二次活性化委員会」を通して委員長だった小倉純二はここで委員11人のメンバ一人として参加した2007年日刊ゲンダイ』での連載では「プロ化道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている。また、「私自身生き方が、そのまま日本サッカー変わり方と一致していた」と話している。

※この「JSL総務主事」の解説は、「森健兒」の解説の一部です。
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