JSL総務主事
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1985年、日本リーグ(JSL)の総責任者・総務主事(現在のJリーグチェアマン)、日本サッカー協会理事となり、協会にプロ化の案件を提出。日本のサッカーはJリーグが始まる七年前、1986年から正式に選手のプロ化が始まり、Jリーグ誕生前には日本のトップリーグは選手のプロ化を完了していた。森は「JSLができてもう20年以上経っているのにずっと成果が出ていなかった。それはサッカーだけじゃなくて日本のスポーツ界全体の問題でした。日本独特のアマチュアリズムという空気があって、それを錦の御旗に掲げながらわずかしかいないメダリストたち自分たちのプレゼンスを誇示して役職を行き来しているだけです。そのくせ文部省にゴマばかりすって。そういう状況でそっちからの改革は絶対にできっこない。プロ化は選手からやらなきゃダメだと考えていました。それにはまずプロ化ということを平気で論じられる空気にすることが大事だったんです」と話している。後のJリーグの構想は「もうプロ化するしかない」と森が発言を始めたところから動き出したものである。 1986年、社業で名古屋に転勤。総務主事には留るが、事務局になかなか顔を出せなくなる。また森に次ぐNo2的な石井義信が日本代表監督に抜擢されたことで、森の不在時には木之本がJSL事務局の責任者となり、木之本の立場が必然的に責任の重いものになる。選手のプロ化は進んでいったが、日本リーグの人気低迷は続き、日本代表チームも、1985年のワールドカップアジア予選、1987年のソウルオリンピック予選と、連続して「あと一歩」のところまで迫ったが、結局はアジアの予選を突破できず。日本リーグ所属チームの代表者による「実行委員会」や「運営委員会」の議論を聞きながら、森は「機が熟した」と感じ、JSL内に1988年、活性化委員会(プロリーグ化検討委員会)を設置、「スペシャル・リーグ」への移行を打ち出す。1988年3月17日、JSL内で活性化委員会が開催される。5年後にスタートするJリーグはこの瞬間から生を宿した。会議の骨格と人選は森と木之本の間で話し合われたが、会議の趣旨がプロリーグの創設を目指すものであることを対外的には伏せておく必要があった。選手のプロ化のときとは違い、今度はサッカー部の存続に直接関わってくる話であり、企業も協会も神経質になることは間違いない。具体的な提案を出す前に圧力がかかるのを避けるため、会議の名称を「JSL活性化委員会」とした。メンバー9名は森と木之本の二人で決めたもの。二人と石井義信、森孝慈、小倉純二、村田忠男、浅野誠也、杉山隆一、佐々木一樹だった。委員長にはバランスを重視して小倉を指名した。この後このメンバーと後に加わった4人の計13人で討議を重ね細部を決定。1988年3月17日に、この会議の第1回会合が行われ、その後約二週間おきに計6回会合が開かれ、同年7月21日に最終報告書をまとめて、サッカー協会の理事会に提出した。この報告書は26頁に過ぎなかったが、1993年に発足したJリーグの基本理念のほとんどは、すでにこの中に盛り込まれていた。川淵が正式に総務主事に就任したのは1988年8月1日で、川淵は「1988年3月の第一次活性化委員会で『スペシャルリーグ』の設立検討が答申され、プロ化の機運は高まっていた」と話している。この年4月に勤務先で部長に昇格していた森は、社業の激務と連携の不便さから5月、4年間サッカーを離れ、サラリーマン生活を送っていた旧知の川淵三郎を後任の総務主事に抜擢した。川淵が正式に総務主事に就任したのは1988年8月1日。川淵はたまにテレビ中継の解説で呼ばれるくらいで、サッカーはほとんど見ていなかった。森が川淵を後継者にすることを決意させたのは、強化本部長時代に見せた川淵のリーダーシップだったという。森は「せっかくプロ化の入り口くらいまで進めているのに、上の世代の人たちに従来のやり方でやって欲しくなかった。川淵さんは少し考えさせてくれと言いました」「ただ川淵さんはおそらく古河電工の役員として東京に戻れると思っていたんでしょう。ところが東京に戻ることになったものの、本体の古河電工ではなく系列の古河産業に出向だったんです。もしこれが本体の役員だったら彼はそっちに行ってサッカーに関わっていなかったと思いますよ。権力志向の強い人だから。これからどうなるかわからないサッカーより彼はそっちを選んだでしょう」と述べている。川淵は「プロリーグの出発点はJSLが1988年2月に立ち上げた第一次活性化委員会だ」と話しているが、川淵は7回あった「第一次活性化委員会」の会議の間は、サッカーを離れて、まだ名古屋でサラリーマンをしていて一度も出席しておらず、活性化委員会の参加は、この後川淵が正式に総務主事に就任した直後の1988年10月に、川淵が設置した「第二次活性化委員会」からとなる。「活性化委員会」は、森が総務主事だった時代に開催されたものを後に「第一次活性化委員会」、川淵が総務主事に就任し、森らに倣い再開させたものを「第二次活性化委員会」と呼ぶ。この「第二次活性化委員会」が翌1989年6月に解散し、川淵がJFAの副会長になっていた長沼健に要請し、JFA内に「プロリーグ準備検討委員会」が設置され、プロリーグ発足に大きく前進した。この「プロリーグ準備検討委員会」は、委員長が川淵、副委員長が「第一次~第二次活性化委員会」を通して委員長だった小倉純二。森はここで委員11人のメンバの一人として参加した。2007年『日刊ゲンダイ』での森の連載では「プロ化の道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている。また、「私自身の生き方が、そのまま日本サッカーの変わり方と一致していた」と森は話している。
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