JSLへの挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 14:47 UTC 版)
「浦和サッカークラブ」の記事における「JSLへの挑戦」の解説
全国社会人サッカー選手権大会での上位2チームが、1965年に始まったJSL下位チームとの入替戦に出場できる。浦和サッカークラブは入替戦に3度出場、JSL昇格に挑戦した。 1965年:全国社会人サッカー選手権大会で準優勝したが、入替戦を辞退した。 1966年:JSL8位のヤンマーディーゼルサッカー部に敗れ(1分1敗)、JSL昇格ならず。 11月23日、アウェイの神戸市で行われた第1戦は、浦和が中盤を支配し優位に試合を進めるものの、後半29分に鬼武健二の得点が決まり0-1で敗退した。 11月29日、ホームの大宮サッカー場で行われた第2戦は、地元観衆の声援を受けた浦和が優位に進め、前半18分に松本が倒されて獲得したPKを萩原が決めて先制。その後、追加点こそ奪えないものの、巧みなパスワークで試合の主導権を握った。 後半に入るとヤンマーが反撃に転じ、後半11分に辻、鬼武がヘディングで繋いだボールを大石がクリーンシュート。これが決まって同点に追いつき、このまま1-1の引分けに終わった。 浦和は昇格を逃したものの、多彩なパスワークとボールキープでヤンマーを上回った。これに対し、来季から早稲田大学の釜本邦茂の加入が内定していたヤンマーは面目を保った。 1968年:JSL7位の日立製作所本社サッカー部に敗れ(2敗)、JSL昇格ならず。 12月29日、アウェイの検見川で行われた第1戦は、引分け狙いの浦和が5バックの守備的な布陣を敷き優位に試合を進めるが、後半28分に八百の得点が決まり0-1で敗退した。 翌1969年1月5日、ホームの浦和駒場サッカー場で行われた第2戦は、浦和が第1戦とは反対に攻勢に出るが、日立はカウンターアタックから前半7分に平沢、前半17分に石井が得点を決め0-2とリードを奪った。ここから浦和は反撃に転じ、前半36分に萩原、後半20分に再び萩原が決め2-2の同点に追いついた。しかし、その2分後には再び八百の得点で引き離し2-3で日立が2連勝し、残留を決めた。 メキシコ五輪銅メダリストの山口芳忠、鈴木良三を擁する日立に対し健闘したが、JSLの壁は崩せなかった。 1969年:JSL8位の名古屋相互銀行サッカー部に敗れ(2敗)、JSL昇格ならず。 12月14日、アウェイの一宮市で行われた第1戦は、名相銀が優位に試合を進め、前半3分に鈴木、後半10分に井沢の得点が決まり0-2で敗退。シュート数は浦和の6に対し約4倍の28本を放った名相銀の完勝といえる内容であった。 12月21日、ホームの大宮サッカー場で行われた第2戦は、初戦の勝利で優位に立つ名相銀が優勢に試合を進め、前半25分に鈴木の得点で先制。2試合合計で3点差と不利な状況の浦和は、後半26分に萩原のミドルシュートで1-1の同点に追いつき、意地を見せる。しかし、終了間際の後半41分に桑原勝義の得点で再び名相銀が突き放し、1-2で敗退。浦和は3回連続でJSL昇格を逃した。
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