JSL時代
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1972年に日本サッカーリーグ(JSL)1部の藤和不動産サッカー部(湘南ベルマーレの前身)に入り、1974年までプレー。セルジオは当初、あくまでもアマチュア選手として仕事の余暇にサッカーをプレーするものだと考えていたが、実際には藤和不動産はほぼ一年中合宿生活を送っており、プロ時代以上の練習量に驚かされることになる。日本人の監督・コーチの非合理的な指導に対し、セルジオが戸惑うこともしばしばあった。 JSL初の「元プロ選手」の加入は大きな話題となり、日本デビュー戦となった1972年開幕戦の三菱重工戦には、同年のJSLの1試合平均観客動員数の4倍となる2万人の観客が国立競技場に集まった。日本サッカー協会では元プロ選手のプレーの是非を巡って議論が起き、その後、外国人選手の試合出場は来日・登録から半年間は認めないとする新たな制限が設けられた。 1974年に藤和不動産の新外国人選手としてセルジオ自らブラジルで探し当てたカルバリオは、その後2度のJSL1部得点王に輝いた。
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JSL時代
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高校卒業後の1986年に、静岡第一テレビ(NNN・NNS系列で、読売新聞東京本社や日本テレビ放送網などの読売グループが株主)の子会社静岡第一ビデオ(現・SDTエンタープライズ)に入社。静岡第一テレビ副社長を兼任していた当時の中平公彦社長の取り計らいもあって社員として勤務する傍ら、静岡第一ビデオからSDT東京支社への出向社員という扱いで日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団した。進学校として名高い清水東から高卒で実業団入りするのはJリーグ創設以前の当時としては異例であった。この頃は午前中に一般業務を行ってから、小田急線でよみうりランドまで通った。入団初年度からポジションを獲得すると、1986-87シーズンに11得点を挙げる活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。この活躍により武田は新人王とベスト11、日本年間最優秀選手賞を受賞した。また1987年には日本代表にも選出され、ソウルオリンピック予選に出場、第1戦のインドネシア戦で代表デビューを飾ると、この試合で代表初得点を記録した。 これらの活躍で武田は、1987-88シーズンのJSLのPRポスターのモデルに選ばれるなど新たなスター選手として扱われるようになった。またルックスの良さやファッションセンスからサッカー以外の雑誌やテレビで紹介されるようになり、1988年1月15日の成人の日には日本テレビ系列で『サッカー青春賛歌「ストライカーへの道」武田修宏20歳からの挑戦』と題したドキュメンタリー番組が放送されるなど、異例の扱いを受けた。 その後一時期不調に陥るが、1989-90シーズンには13得点を挙げ復活を果たし、翌1990年に代表へ復帰。同年にブラジルから三浦知良が加入すると三浦とのコンビで1990-91、1991-92シーズンのリーグ連覇に貢献した。
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