Jリーグ発足後
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日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い読売クラブがヴェルディ川崎と改組された後も、三浦、ラモス瑠偉、北澤豪らと共に中心選手としてチームを支え黄金時代を築いた。1993年5月15日、Jリーグ開幕戦となった横浜マリノス戦、先発したが前半のみの出場となった。第3節のサンフレッチェ広島戦でJリーグ初得点を挙げた。セカンドステージ、第11節のマリノス戦では決勝ゴールを挙げ、数年間勝利出来ずにいたライバルから勝利した。当時の武田の年俸は1億2千万円と言われ、JSL時代よりも多くの収入を手に入れると共に人気選手として注目を集めた。日本代表にも引き続き選出されたが、ハンス・オフト監督の下では高木琢也や中山雅史といった同年代の選手に比べ出場機会は少なく、控え選手としてベンチを温めることが多かった。後に「ドーハの悲劇」と呼ばれたW杯アメリカ大会のアジア最終予選・イラク戦では試合終盤の81分に中山と交代で出場するも、試合終了間際の致命的な判断ミスがロスタイムでの失点につながり非難を浴びた。その後、1994年のパウロ・ロベルト・ファルカン体制での出場を最後に、日本代表に招集されなくなった。 1996年、武田は出身地の浜松に隣接する磐田市のジュビロ磐田に移籍したのを皮切りに、一旦ヴェルディに復帰後、京都パープルサンガ、ジェフユナイテッド市原と移籍した。。磐田ではDFの右サイドバックとして起用される事が多く(後述)、ラモスの存在が決断を促した京都移籍はシーズン途中にラモスがヴェルディに復帰したため武田が取り残される形となり、市原では2年間のリーグ戦で19ゴールと活躍したがチームはJ2降格の危機にさらされるなどの苦難も味わった。1999年のシーズン終了後、市原から戦力外通告を受ける。その後、古巣のヴェルディに市原時代の1/4の年俸で移籍復帰する(ヴェルディ川崎としての最終年)。ヴェルディで出番を与えられなかった2000年の途中にはパラグアイのスポルティボ・ルケーニョに移籍して活動の場を求めたが、3か月後に監督が交代、退団した。 2001年、武田は川崎から本拠地を移転した東京ヴェルディ1969へ3度目の復帰を果たし、チームでの活躍と日本代表復帰を目指したが、同年を最後に現役引退。引退は相談したホリプロの会長に勧められたという。よみうりランドで行った引退会見 では涙ながらに心情を吐露し(「できれば、辞めたくなかったです」の台詞)、その場にいた記者から拍手が湧き上がり、チーム本拠地の東京スタジアムで行われた第81回天皇杯準々決勝の後で引退セレモニーが行われた。読売クラブ時代に同期入団し、ヴェルディを共に支えた菊池新吉と共に引退。
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Jリーグ発足後
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1991年に清水市(2003年4月に旧・静岡市と対等合併し、現在の新・静岡市清水区となる)がJリーグ参戦を念頭において結成したクラブチーム・清水FC(清水エスパルス)に大榎と長谷川が加入。堀池は1シーズン遅れて加入し3人が再集結。Jリーグ草創期を賑わせる存在となった。 1993年には、清水東三羽烏は3人とも日本代表に選出され、堀池が日本代表不動の右サイドバックとして活躍しており、大榎はディフェンダーとして、長谷川はフォワードに名を連ねた。堀池と長谷川はドーハの悲劇で有名となったW杯アメリカ大会アジア最終予選のメンバーに選出されている。
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