JSL1部
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「1987年-1988年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説
前年に「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の名称で導入されたプロ選手登録制度は一年でなくなり、このシーズンは「ライセンス・プレーヤー」と呼ばれるプロ選手が72人と前年より大幅に増えた。 ヤマハが第20節・マツダ戦に1-0で勝利し、無敗でJSL初優勝を決めた。ヤマハはこの年から杉山隆一が総監督になり、監督には小長谷喜久男が就任、クラブ初の外国人選手として加入したMFアンドレとFWアディウソンのブラジル人コンビが攻撃面でよく機能した。ヤマハと優勝を争った日本鋼管は、第18節からの3連敗が響いて2位に終わった。 日産に加入した元ブラジル代表キャプテンのDFオスカーはJSL始まって以来の大物選手として注目を集めた。
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JSL1部
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このシーズンは序盤から混戦状態のままシーズンが進み、最終節を前にして勝ち点21の三菱重工、古河電工、勝ち点20のヤンマー、フジタ、勝ち点19の日立の5チームに優勝の可能性が残されていた。最終節は10月30日と31日に開催され、30日に試合があった前年チャンピオンのフジタは、日産に敗れて最初に脱落した。31日13時に始まった三菱対日立の試合では、三菱が5-1で勝った。三菱の勝利により、14時キックオフのヤンマーは試合中に優勝の可能性が消えた。同じく14時開始の本田技研対古河の試合は無得点のまま前半を折り返した。三菱が大勝したことにより古河は4-0以上での勝利が必要になったが、それが焦りへと繋がり、後半5分に菅野将晃が先制ゴールを決めたものの、本田に逆転を許して1-2で敗れた。三菱が4年ぶり4度目の優勝を果たし、ヤンマーが2位、古河が3位となった。 2位となったヤンマーは大ベテランの釜本邦茂が第8節マツダ戦でアキレス腱を切り、残り試合に出場できなかった。釜本にとっては、この年の第7節日立戦で記録した通算202ゴール目が、JSLにおける自身最後のゴールになった。 このシーズンより従来リーグ側が担っていた試合運営を各ホームチームに任せる「自主運営」が始まった。これまでは各チームが均等に拠出したリーグ分担金を試合の運営経費に使い、集まった入場料収入は観客数の上下に関係なく各チーム均等に分配していた。この年からは各ホームチームが経費を負担するが、営業努力によって観客を集めれば、その分だけ収益も上がる仕組みになった。この自主運営の始まりこそが将来のプロリーグ化に向けた第一歩だったともいわれている。
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JSL1部
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「1988年-1989年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説
このシーズンから勝ち点制度が変更され、勝利は3、引き分けは1になった(従来は勝利に2、引き分けに1)。引き分けの価値を低くし、積極的な試合を増やすという狙いがあった。 日産が開幕から11連勝して前期終了時点で独走状態に入った。しかしヤマハとの後期開幕戦を1-2で落として連勝が終わり、その後も鳴かず飛ばずで後期は3勝4分4敗という成績だった。一時期は2位以下のチームに僅差にまで追い上げられたが、4月26日、三ツ沢球技場での本田技研戦に1-0で勝利して初優勝を決めた。日産は前年に加入した元ブラジル代表キャプテンのオスカーを中心とした守備が固く、スポーツニッポン社が制定してこの年から始まった最優秀選手賞には柱谷哲二が選ばれた。 1989年2月26日に国立競技場で行われた読売クラブ対三菱重工、日産対ヤマハのダブルヘッダーによる後期開幕戦は、リーグ活性化のために入場料を無料とし、事前に入念な宣伝を行った。その結果、試合当日は雨が降り寒い気候だったにもかかわらず、4万1000人を集め、21年ぶりにリーグ記録を更新した(従来の記録は1968年の三菱重工対ヤンマーの4万人)。
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JSL1部
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前年優勝のヤンマーと日立が優勝を争い、両チームとも勝ち点19(得失点差はヤンマーが+19、日立が+17でヤンマーが上回る)で最終節を迎えた。最終節、日立は東京で行われた新日鐵戦に3-0で勝利した。同時刻に神戸で行われたヤンマー対三菱重工の試合では、前半2分、4分と立て続けに三菱がゴールが決めた。ヤンマーは同点には追いついたものの逆転できず2-2の引き分けに終わり、日立の初優勝が決まった。低迷していた日立は1970年に元日本代表監督の高橋英辰を監督に迎え、豊富な運動量を活かす組織的なサッカーで「走る日立」の異名を取った。 この年JSLに昇格した藤和は、後期からブラジルのコリンチャンスでプレーしていたセルジオ越後を獲得した。JSLでは外国籍選手はこれまでにもいたが、元プロ選手の加入はこれが初めてだった。 翌年から1部のチーム数が2つ増えて10となるため、入れ替え戦は行われなかった。
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JSL1部
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この年から中村勤が監督となったフジタが、「負けないサッカー」のスローガン通りに18試合で7失点という堅守で優勝した。無失点試合は15試合におよび、これは最後まで破られることのないJSL記録となった。フジタは守備の要だった今井敬三が前シーズンを最後に引退したが、野村貢がその穴を埋めた。攻撃陣では大卒新人の手塚聡、前年に加入したホルヘ平野とエミリオ村上のペルーコンビが機能した。 フジタと読売クラブによる優勝争いは、11月22日に名古屋瑞穂競技場で開催された最終節の直接対決まで持ち越された。フジタは勝ち点差2で読売を上回るため、引き分け以上の結果ならフジタが優勝、読売はたとえ1点差であっても勝ちさえすれば総得点により逆転優勝が決まる状況だった。後半40分にフジタの野村貢がペナルティエリア内でボールを手ではたき落としたが、主審の中道静晴は故意のハンドとはみなさなかった。後半44分にはジョージ与那城がシュートを決めたが、直前のプレーにオフサイドがあったとしてゴールを認められなかった。試合は0-0で終わり、フジタが3度目の優勝を決めた。
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JSL1部
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前期は前年優勝のフジタが首位で折り返したが、後期開幕戦(第10節)を終えると三菱重工が入れ替わって首位になった。三菱が後期開幕から4連勝して勝ち点16をあげていた時期に、フジタは勝ち点3しか積み上げられず、三菱が独走状態に入った。三菱は第17節、広島での東洋工業との試合に3-1で勝利して5年ぶり3度目の優勝を決めた。三菱は7、8月の第3回JSLカップから、ユニフォームの色を従来の青から赤へと変更していた。 2位には釜本邦茂がプレーイングマネージャーに就任したヤンマーが入った。。この年にクラブチームとしては初めてJSL1部に昇格した読売クラブは4位となった。後期に限定すれば7勝2敗という全チーム中トップの好成績だった。 1976年(第12回)チャンピオンの古河電工は最下位に沈んだが、本田技研との入れ替え戦を制して残留を決めた。古河はシーズン前から負傷者が続出し、開幕から8連敗を喫していた。
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JSL1部
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三菱重工は古河電工との開幕戦に0-2で敗れた後、第2節から第15節にかけてJSL全シーズンを通しての連勝記録となる14連勝で独走した。三菱は11月16日、第16節のヤンマー戦を1-1で引き分け、この試合で連勝記録は途絶えたものの、1969年以来4年ぶり2度目の優勝を決めた。 三菱はゲームメーカーの森孝慈がキャリアの全盛期を迎え、守備面ではGK横山謙三、大仁邦彌と落合弘を中心としたDF陣が堅守を築いた。この年限りで引退したベテランの杉山隆一は体力面を考慮されて主に後半途中からの出場になったが、この起用方法がはまり、三菱は前半は守り切り、杉山が入った後半にゴールを奪うという形で連勝した。三菱はこの後の第53回天皇杯にも優勝して2冠を達成した。 このシーズンからチーム数の増加によって試合数が56から90に増えたが、総観客動員数はむしろ下がり、前年まで6シーズン連続で5000人台を越えていた1試合平均動員数は2000人台にまで下がった。
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このシーズンより90分を終えて同点の場合にはPK戦を実施するようになった。勝ち点は90分での勝利に4、PK勝ちに2、PK負けに1、敗戦に0。順位決定方法にも変更があり、これまで勝ち点と得失点差が同じ場合はゴールアベレージ(得点÷失点)で順位を決めていたが、それが総得点に変わった。 フジタが、64得点という圧倒的な攻撃力で独走し、2試合を残して第16節に優勝を決めた。FWカルバリオとMFマリーニョのブラジル人コンビは2人で41ゴールを奪い、得点王に輝いたカルバリオは23ゴールでJSLのシーズン最多得点記録を打ち立てた。 前年チャンピオンの古河電工は、奥寺康彦が10月にドイツへ移籍したこともあって6位に終わった。 このシーズンの観客動員は15万9,650人(前年23万2,400人)まで落ち込み、1試合平均動員数はJSL全シーズンを通じて最低の1,773人だった。
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第16節、名古屋の瑞穂陸上競技場にて首位フジタとそれを勝ち点9差で追う2位読売クラブの直接対決があり、フジタが2-1で勝利して2年ぶり2度目の優勝を決めた。 2位には前年JSL1部に初昇格した読売クラブが入った。1年間の出場停止処分が解け、この年がJSL1部デビューとなったラモスは得点王とアシスト王の2冠に輝いた。読売クラブでは、現役高校生の戸塚哲也(18歳と1日)が4月25日の東洋工業戦でリーグ戦デビューを飾った。戸塚は読売ユース出身の生え抜き選手で、この記録は1986年2月1日に同クラブの菊原志郎が16歳7ヶ月で出場するまでJSL最年少出場記録であった。
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JSL1部
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古河電工が得意の堅守速攻が冴え渡り9年ぶりの2度目のリーグ優勝を達成した。また日本鋼管や本田技研といったダークホースの健闘が光ったシーズンとなった。開幕前に優勝候補と目されていた読売クラブや日産自動車は日本代表に多くの選手を送り出していた事もあって苦戦が続き不本意なシーズンとなった。 主な話題として、1986年2月8日の第16節、三菱対日立戦で西野朗(日立)が8試合連続得点を達成し、釜本邦茂の記録(釜本は2度記録)に並んだ。2月1日の第15節、読売対フジタ戦で現役高校生の菊原志郎(読売クラブ)が後半から途中出場し、16歳7ヶ月というリーグ最年少出場を記録した事などが挙げられる。 また、読売に次ぐクラブチームの1部参加となった全日空横浜サッカークラブはシーズンを通じて最下位に低迷し、3月22日の第22節、三菱重工戦で選手6名がボイコット騒動を起こし、選手たちには無期限登録停止処分、クラブには3ヶ月間の公式戦出場停止処分が課された。 今シーズンのキャッチフレーズは「見せてくれ、蹴闘」。モデルにタレントの明石家さんまが起用された。
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