JSL1部とは? わかりやすく解説

JSL1部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 11:05 UTC 版)

1987年-1988年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

前年に「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の名称で導入されプロ選手登録制度一年なくなり、このシーズンは「ライセンス・プレーヤー」と呼ばれるプロ選手72人と前年より大幅に増えたヤマハが第20節・マツダ戦に1-0勝利し無敗JSL初優勝決めたヤマハこの年から杉山隆一総監督になり、監督には小長谷喜久男就任クラブ初の外国人選手として加入したMFアンドレFWアディウソンのブラジル人コンビ攻撃面でよく機能したヤマハ優勝争った日本鋼管は、第18節からの3連敗響いて2位終わった日産加入したブラジル代表キャプテンDFオスカーJSL始まって以来大物選手として注目集めた

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1982年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

このシーズン序盤から混戦状態のままシーズン進み最終節前にして勝ち点21三菱重工古河電工勝ち点20ヤンマーフジタ勝ち点19日立の5チーム優勝可能性残されていた。最終節10月30日31日開催され30日試合があった前年チャンピオンフジタは、日産敗れて最初に脱落した31日13時に始まった三菱対日立の試合では、三菱5-1勝った三菱勝利により、14時キックオフヤンマー試合中優勝可能性消えた同じく14時開始本田技研古河試合無得点のまま前半折り返した三菱大勝したことにより古河4-0上で勝利必要になったが、それが焦りへと繋がり後半5分に菅野将晃先制ゴール決めたものの、本田逆転許して1-2敗れた三菱4年ぶり4度目優勝果たしヤンマー2位古河3位となった2位となったヤンマーは大ベテラン釜本邦茂第8節マツダ戦でアキレス腱を切り、残り試合出場できなかった。釜本にとっては、この年第7節日立戦で記録した通算202ゴール目が、JSLにおける自身最後ゴールになった。 このシーズンより従来リーグ側が担っていた試合運営を各ホームチーム任せる「自主運営」が始まったこれまでは各チーム均等に拠出したリーグ分担金試合運営経費使い集まった入場料収入観客数の上下に関係なく各チーム均等に分配していた。この年からは各ホームチーム経費負担するが、営業努力によって観客集めれば、その分だけ収益上がる仕組みになった。この自主運営始まりこそが将来プロリーグ化向けた第一歩だったともいわれている。

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1988年-1989年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

このシーズンから勝ち点制度が変更され勝利は3、引き分けは1になった従来勝利に2、引き分けに1)。引き分け価値低くし、積極的な試合増やすという狙いがあった。 日産開幕から11連勝して前期終了時点独走状態に入った。しかしヤマハとの後期開幕戦1-2落として連勝終わりその後鳴かず飛ばず後期は3勝4分4敗という成績だった。一時期2位以下のチーム僅差にまで追い上げられたが、4月26日三ツ沢球技場での本田技研戦に1-0勝利して初優勝決めた日産前年加入したブラジル代表キャプテンオスカー中心とした守備固くスポーツニッポン社制定しこの年から始まった最優秀選手賞には柱谷哲二選ばれた。 1989年2月26日国立競技場行われた読売クラブ対三重工日産ヤマハダブルヘッダーによる後期開幕戦は、リーグ活性化のために入場料無料とし、事前に入念な宣伝行ったその結果試合当日降り寒い気候だったにもかかわらず、41000人を集め21年ぶりにリーグ記録更新した従来記録1968年三菱重工ヤンマーの4万人)。

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1972年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

前年優勝ヤンマー日立優勝争い両チームとも勝ち点19得失点差ヤンマーが+19日立が+17ヤンマー上回る)で最終節迎えた最終節日立東京行われた新日鐵戦に3-0勝利した同時刻に神戸行われたヤンマー対三重工試合では、前半2分、4分と立て続け三菱ゴール決めたヤンマー同点には追いいたもの逆転できず2-2引き分け終わり日立初優勝決まった低迷していた日立1970年元日本代監督高橋英辰監督迎え豊富な運動量活かす組織的なサッカーで「走る日立」の異名取ったこの年JSL昇格した和は、後期からブラジルコリンチャンスプレーしていたセルジオ越後獲得したJSLでは外国籍選手これまでにもいたが、元プロ選手加入はこれが初めてだった。 翌年から1部チーム数が2つ増えて10となるため、入れ替え戦行われなかった。

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1981年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

この年から中村勤監督となったフジタが、「負けないサッカー」のスローガン通り18試合で7失点という堅守優勝した。無失点試合15試合におよび、これは最後まで破られることのないJSL記録となったフジタ守備の要だった今井敬三が前シーズン最後に引退したが、野村貢がその穴を埋めた攻撃陣では大卒新人の手塚聡、前年加入したホルヘ平野エミリオ村上のペルーコンビが機能したフジタ読売クラブによる優勝争いは、11月22日名古屋瑞穂競技場開催され最終節直接対決まで持ち越された。フジタ勝ち点差2で読売上回るため、引き分け上の結果ならフジタ優勝読売はたとえ1点であっても勝ちさえすれば得点により逆転優勝が決まる状況だった。後半40分にフジタ野村貢ペナルティエリア内でボールを手ではたき落としたが、主審中道静晴は故意ハンドとはみなさなかった。後半44分にはジョージ与那城シュート決めたが、直前プレーオフサイドがあったとしてゴール認められなかった。試合0-0終わりフジタ3度目優勝決めた

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JSL1部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 23:18 UTC 版)

1978年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

前期前年優勝フジタ首位折り返したが、後期開幕戦(第10節)を終えると三菱重工入れ替わって首位になった三菱後期開幕から4連勝して勝ち点16をあげていた時期に、フジタ勝ち点3しか積み上げられず、三菱独走状態に入った三菱は第17節、広島での東洋工業との試合3-1勝利して5年ぶり3度目優勝決めた三菱7、8月の第3回JSLカップから、ユニフォームの色を従来の青から赤へと変更していた。 2位には釜本邦茂プレーイングマネージャー就任したヤンマー入った。。この年クラブチームとしては初めてJSL1部に昇格した読売クラブは4位となった後期限定すれば7勝2敗という全チームトップ好成績だった。 1976年第12回チャンピオン古河電工最下位沈んだが、本田技研との入れ替え戦制して残留決めた古河シーズン前から負傷者続出し開幕から8連敗喫していた。

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1973年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

三菱重工古河電工との開幕戦0-2敗れた後、第2節から第15節にかけてJSLシーズン通して連勝記録となる14連勝独走した三菱11月16日、第16節のヤンマー戦を1-1引き分け、この試合連勝記録途絶えたものの、1969年以来4年ぶり2度目優勝決めた三菱ゲームメーカー森孝慈キャリア全盛期迎え守備面ではGK横山謙三大仁邦彌落合弘中心としたDF陣が堅守築いたこの年限り引退したベテラン杉山隆一体力面を考慮されて主に後半途中からの出場になったが、この起用方法がはまり、三菱前半守り切り、杉山入った後半ゴールを奪うという形で連勝した三菱この後第53回天皇杯にも優勝して2冠を達成した。 このシーズンからチーム数の増加によって試合数が56から90増えたが、総観動員数はむしろ下がり、前年まで6シーズン連続5000人台越えていた1試合平均動員数2000人台にまで下がった

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1977年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

このシーズンより90分を終えて同点の場合にはPK戦実施するようになった勝ち点90分での勝利に4、PK勝ちに2、PK負けに1、敗戦に0。順位決定方法にも変更があり、これまで勝ち点得失点差が同じ場合はゴールアベレージ(得点÷失点)で順位決めていたが、それが総得点変わったフジタが、64得点という圧倒的な攻撃力独走し、2試合残して16節に優勝決めたFWカルバリオとMFマリーニョブラジル人コンビ2人41ゴール奪い得点王輝いたカルバリオは23ゴールJSLシーズン最多得点記録打ち立てた前年チャンピオン古河電工は、奥寺康彦10月ドイツへ移籍したこともあって6位に終わった。 このシーズン観客動員159,650人(前年23万2,400人)まで落ち込み1試合平均動員数JSLシーズン通じて最低の1,773人だった。

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1979年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

16節、名古屋瑞穂陸上競技場にて首位フジタとそれを勝ち点9差で追う2位読売クラブ直接対決があり、フジタ2-1勝利して2年ぶり2度目優勝決めた2位には前年JSL1部に初昇格した読売クラブ入った1年間出場停止処分解けこの年がJSL1部デビューとなったラモス得点王アシスト王の2冠に輝いた読売クラブでは、現役高校生戸塚哲也18歳1日)が4月25日東洋工業戦でリーグ戦デビュー飾った戸塚読売ユース出身生え抜き選手で、この記録1986年2月1日に同クラブ菊原志郎16歳7ヶ月出場するまでJSL最年少出場記録であった

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1985年のJSL」の記事における「JSL1部」の解説

古河電工が得意の堅守速攻冴え渡り9年ぶりの2度目リーグ優勝達成した。また日本鋼管本田技研といったダークホース健闘光ったシーズンとなった開幕前に優勝候補目されていた読売クラブ日産自動車日本代表多く選手送り出していた事もあって苦戦続き不本意なシーズンとなった主な話題として、1986年2月8日の第16節、三菱対日立戦で西野朗日立)が8試合連続得点達成し釜本邦茂記録釜本2度記録)に並んだ2月1日の第15節、読売フジタ戦で現役高校生菊原志郎読売クラブ)が後半から途中出場し、16歳7ヶ月というリーグ最年少出場記録した事などが挙げられるまた、読売に次ぐクラブチーム1部参加となった全日空横浜サッカークラブシーズン通じて最下位低迷し3月22日の第22節、三菱重工戦で選手6名がボイコット騒動起こし選手たちには無期限登録停止処分クラブには3ヶ月間の公式戦出場停止処分課された。 今シーズンキャッチフレーズは「見せてくれ、蹴闘」。モデルタレント明石家さんま起用された。

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