桑原勝義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/01 14:12 UTC 版)
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| 名前 | ||||||
| カタカナ | クワハラ カツヨシ[1] | |||||
| ラテン文字 | KUWAHARA Katsuyoshi | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | |
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| 生年月日 | 1944年5月30日(80歳) | |||||
| 出身地 | 静岡県藤枝市 | |||||
| 身長 | 166cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| ユース | ||||||
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
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| ????-1971 | |
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| 代表歴 | ||||||
| 1965-1967[2] | |
2 | (0) | |||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - )は静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現・静岡県サッカー協会専務理事、日本サッカー協会理事、日本フットボールリーグ理事長[3]。実弟は桑原隆。
略歴
1962年度高校サッカー選手権で静岡県立藤枝東高等学校が初優勝した時の中心選手。卒業後は日軽化工清水工場、名古屋相互銀行(以下、名相銀)などに所属し、1965年には日本代表に選出され国際Aマッチ2試合に出場した[2]。
1971年、名相銀の解散で選手は引退し、銀行の仕事に専念するつもりでいたが、日本サッカー協会の幹部・長沼健に勧められ、生まれ育った静岡に日本リーグのチームをという仕事にロマンを感じ銀行職を捨て、翌1972年、前年創設された本田技研工業サッカー部に加入[4]。翌1973年にプレイングマネージャーとなり、桑原を中心にチームは強化され、その後10年間に渡り同サッカー部を指導、JSL1部昇格に導いた[4]。その後、浜松市に「クワハラ・スポーツクラブ」を設立、1987年に実弟の桑原隆と共にPJMフューチャーズの立ち上げに関わり、自前での選手育成や短期間でのJSL1部昇格を目指し将来のプロリーグ参加を目標に掲げた事で話題となった。
所属クラブ
指導歴
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 2試合 0得点(1965)[2]
| 日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| 1965 | 2 | 0 | 3 | 1 | 5 | 1 |
| 1966 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1967 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
| 通算 | 2 | 0 | 4 | 1 | 6 | 1 |
出場
| No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1965年03月22日 | △1-1 | 長沼健 | 国際親善試合 | |||
| 2. | 1965年03月25日 | ○4-1 | 国際親善試合 |
出典
外部リンク
- 桑原勝義 - National-Football-Teams.com
- 桑原勝義 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 桑原勝義 - Transfermarkt.comによる指導者データ
固有名詞の分類
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