朝鮮蹴球協会と日本代表
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「大韓サッカー協会」の記事における「朝鮮蹴球協会と日本代表」の解説
大韓帝国の各地で小規模なサッカー協会が作られるようになり、韓国併合時代(1910年-1945年:日本領朝鮮)の1920年7月13日には約90名の有志らが「朝鮮体育会」を創立。1921年に大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会(JFA))が創立されると、その7年後の1928年5月22日には「朝鮮審判協会」が誕生する。この組織を母体に1933年9月19日には有志20名余りにより「朝鮮蹴球協会」が正式に創立され、大日本蹴球協会の理事でもあった朴勝彬(パク・スンビン)が初代会長に就任した。 1936年に行われたベルリンオリンピック(ドイツ)では日本代表に朝鮮半島から金容植(キム・ヨンシク)が選出されると、1940年に行われる予定であった東京オリンピック (1938年7月15日に開催を返上)では金容植、裴宗鎬(ペ・ジョンホ)、金成汗(キム・ソンガン)、李裕瑩(イ・ユヒョン)の4名が選出される。1939年と1940年に行われた日本、満州国、中華民国(汪兆銘政権)が出場する日満華交歓競技大会や東亜競技大会には、東京オリンピックに出場予定だった朝鮮からの選手も日本代表として出場した。
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