朝鮮送還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 13:52 UTC 版)
『竹島考』や鳥取藩の『池田家御櫓日記』などによると、大谷家により連行された安龍福ら二人は米子で二ヶ月に渡り取り調べられ、米子の家老 荒尾修理より報告を受けた鳥取藩はこの事を江戸に連絡し指示を仰いだ。指示があるまで安龍福ら二人の朝鮮人を米子の大谷九右衛門勝房方に留め、足軽二名を付き添わせて警護に当たった。その間は、安龍福の外出は許可されなかったが、酒は一日三升以下をも支給されている。その後、幕府からの通達があり、二人に今後は竹島(鬱陵島)に渡らないよう厳命し異国人の窓口である長崎に護送するよう指示があった。彼らを米子から一時鳥取城下に移したが、安龍福は強暴であるということから町内での見物を禁止している。陸路山陰道を通り長崎に送られることになるが、鳥取藩は長崎まで医師や調理人等を含め約90人を随行させ道中の食事は「一汁七菜」を出してもてなすなど、異国からの客人のように扱っている。一方幕府は、対馬藩に、二人を長崎で引き取って朝鮮へ送還するとともに朝鮮政府に越境について抗議するよう命じており、対馬藩は、竹島(鬱陵島)は日本領との幕府の見解に基づき、二人を罪人として扱った。対馬藩は長崎で安龍福を取調べるが、その証言をまとめた「朝鮮人口上書」には、安龍福は漁労のため鬱陵島へ9人で渡ったとし、大谷家の尋問と違う証言をしている。その後、対馬藩は幕府の指示に基づき対馬経由で二人を朝鮮政府に引き渡しており、この時朝鮮政府に対し竹島(鬱陵島)は日本の領土なので朝鮮人は来ないよう申し渡したため、鬱陵島を自国領としている朝鮮との間で領土問題となる。(竹島一件) 安龍福らは朝鮮へ引き渡された後、朝鮮でも取調べを受けるが、朝鮮側の史料『辺例集要』巻一七によると、安龍福らは魚を商うため船に物を乗せ移動していたところ、漂風によって鬱陵島に到着した。船から下りて隠れていたが、朴於屯と安龍福の二人は下船が遅れたため、そこに船でやって来た日本人八人に刀剣と鳥銃で威嚇され連れ去られたとしている。 大谷家の人に対しては威勢を張るためか、3艘42人で来て自分たち以外にもまだ大勢いるように言っているが、長崎では9人と証言し、朝鮮では自分たちは6人だとしている。また、密航を隠すためか、漁労をしていたにもかかわらず、島に漂着し隠れようとしているところを日本人に銃で脅され連れ去られたなどとしている。年齢も所持していた腰牌からするとこの時36歳のはずだが、虚勢張ってか42歳だと言っている。
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