朝鮮通信使待遇改訂
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日朝関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵によって破壊され、関係の復旧に意欲を示した徳川家康は対馬の宗氏を通じて国交回復の交渉を行い、結果寛永13年(1636年)に通信使という名の使節の最初の者が送られてきたのを皮切りに、以後、将軍の代替わりの度に通信使が来日することになる。家宣が将軍に就いた時にも、それを祝って正徳元年に第8回目の通信使が来日している。変更の骨子は「経費節減」と「将軍の呼称の変更」の2つである。その背景にあるのは、白石の対朝鮮外交の基本方針である、和平・簡素・対等である。 正使以下の一行の人数は約500人、供を含めると大体1000人、対馬から江戸までの道中は各藩が担当したからその人数も含めると更に多くなる。また、李氏朝鮮も徹底した文治主義をとり、非常に形式主義的な性格の強い朝鮮使節の応接は勅旨以上に気を使うものであった。白石は通信使の応接に約100万両という巨額の費用がかかり、そのため、幕府財政が傾く恐れがある、こう判断し、60万両で抑えることに成功している。 朝鮮側の国書の宛先を「日本国大君」から「日本国王」に直した。 白石としては、「征夷大将軍」は日本国内でこそ威権があるが海外では何を意味するのかが不明であり、大君の称も朝鮮では王子の嫡子に対する称号として用いられていたため、この際、足利時代にも一度国書で使用された「国王」に変更すべきであるというものであった。これに対しては幕府内反対派の林家から「国王は天皇を指し、将軍が国王を名乗るべきではなく、無用の改変。平地に波風を立てるもの」、対馬藩藩儒雨森芳洲から「李氏朝鮮は急激な変革を特に嫌う。再考願いたい」とそれぞれ反論をうけ、一時は白石の辞職願にまで発展したが、将軍家宣の全面的な白石支持により事なきを得、最終的に実現している。 使節待遇の変更は朝鮮側の誤解を招き、抗議を受ける場面もあった。しかし、必ずしも使節を冷遇したわけではない。朝鮮国王への返書を将軍自らが手渡したり、江戸城内で舞楽を上演したりするなど、礼遇と呼べる面もある。
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