朝鮮貴族の侯爵家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:00 UTC 版)
日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した。ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵位だった。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。 朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。 朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち侯爵に叙されたのは次の6名である。興宣大院君の甥で宮内府内大臣や陸軍副将、漢城銀行長などを歴任した李載完、駐日大使や韓国赤十字社総裁などを歴任した李載覚、中枢院議官だった李海昌、李王家の連枝で侍講院侍従官を務めた最年少の李海昇、純宗妃の父で侍講院侍従官、英親王府総弁、陸軍副将を歴任した尹沢栄、そして朴泳孝である。日本でもっとも著名なのは朴泳孝である。彼は血筋がよく妻が25代国王哲宗の娘であることで政治の中枢に入り、金玉均とともに「開化派」として日本に倣った朝鮮近代化を推進し、金弘集内閣や李完用内閣など親日政権の内部大臣や宮内大臣を務めた。併合後も朝鮮貴族会会長、朝鮮総督府中枢院副議長、貴族院勅選議員などを歴任したため日本で著名になった。また日韓併合時の韓国首相である李完用は伯爵から侯爵に陞爵した。
※この「朝鮮貴族の侯爵家」の解説は、「侯爵」の解説の一部です。
「朝鮮貴族の侯爵家」を含む「侯爵」の記事については、「侯爵」の概要を参照ください。
- 朝鮮貴族の侯爵家のページへのリンク