騒動の始末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 01:13 UTC 版)
この戦闘によって、鎮撫使側では1名(道島五郎兵衛)が死亡、1名(森岡善助)が重傷、4名(奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門)が軽傷を負った。残りの3名は無傷だった。志士では、6名(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助、森山新五左衛門)が重傷を負ったが、この負傷者2名は後で切腹させられた。 まだ2階にいた尊王派の薩摩藩士の大半は投降し、美玉三平などは逃亡した。岩元勇助、西郷信吾、大山弥助、三島弥兵衛、木藤市助(市之介)、伊集院直右衛門、篠原冬一郎、坂元彦右衛門、森新兵衛(真兵衛)、深見休蔵、吉原弥二郎、永山弥一郎、柴山龍五郎、是枝万助(柴山矢吉)、林正之進、谷元兵右衛門、吉田清右衛門、町田六郎左衛門、有馬休八、岸良三之介、橋口吉之丞の21名が帰藩謹慎を命じられた。 なお、京都藩邸で療養中の薩摩藩士山本四郎(義徳)もこれに加わるところであったので、帰藩謹慎が命じられた、しかし彼はこれを佳しとせず、服さなかったので切腹させられた(彼を含めて9人の殉難者が烈士とされた)。 残りの他藩尊王派志士たちの多くも投降し、何人かは逃亡した。真木和泉とその息子真木菊四郎、酒井伝次郎、鶴田陶司、原道太、中垣健太郎、荒巻平太郎、吉武助左衛門、古賀簡ニ、淵上謙三は久留米藩に引き渡され、他数名は土佐藩等の所属する藩に引き渡された。 引き取り手のない浪人は、鹿児島で引き取ると申し渡された。これは薩摩藩では月照の時と同じく日向への道中での斬り捨てを暗に意味していたが、それを知らない浪人の田中河内介とその息子田中瑳磨介、甥千葉郁太郎、さらには中村主計、青木頼母、そして秋月藩士だが同行を望んだ海賀宮門はこの条件を受け入れ、進んで船に乗った。4月28日、大坂より二船に分乗して出航。5月2日、田中親子は薩摩藩士によって斬殺されて海へ投げ捨てられた。遺体は小豆島に漂着して同地の農民によって埋葬された。海賀、千葉、中村は7日に日向細島沖で決闘と称して斬殺されて海へ捨てられ、遺体は近くの金ヶ浜に漂着。同じく埋葬され、中村を除く2名は殉死者とされた。青木は田中親子と同船で同じく斬られたが、遺体は上がらなかったのか、墓はない。 この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。
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