騒動の変質と鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:06 UTC 版)
郡内勢は当初、武七・兵助に統率され百姓一揆の作法に則った活動を行っていたが、国中に至ると「悪党」と呼ばれる国中百姓や無宿人らが参加し、騒動は激化・無秩序化する。 無宿人に率いられた国中勢は郡内勢と分かれると暴徒化し、鉄砲や竹槍などで武装し盗みや火付けなどの逸脱行為を行い、村々に対して一揆への参加を強制した。国中勢は8月22日には石和宿(笛吹市石和町)を襲撃すると二手に別れ、一方は甲州道中から甲府町方(甲府市)へ向かい、一方は笛吹川沿いに南下した。甲州道中を進んだ一揆勢は翌8月23日に甲府町方を守備する甲府勤番永見伊勢守、甲府代官・井上十左衛門の手代らの防衛戦を突破すると甲府城下へ乱入し、城下の穀仲買や有徳人らの屋敷を打ちこわし、火付けも行った。 甲府城下の打ち壊しをおこなった一揆勢はさらに二分し、一手は遠光寺村から巨摩郡中郡筋西条村(昭和町)へ進み、西青沼町から飯田新町と打ち壊しを続け、荒川を経て巨摩郡北山筋上石田町(甲府市)、西八幡村・竜王村(甲斐市西八幡・竜王)まで進み、打ちこわしや火付けを行うと、釜無川を渡河せず笛吹川筋で打ちこわしを続けた。 一方、遠光寺村から南下した一手は甲府勤番永見石見守の手勢による追撃で一部が捕縛され、こちらも中郡筋乙黒村においてさらに二手に分かれた。一手は中郡筋大田和村に、一手は西条村にそれぞれ向かった。騒動勢は中郡筋布施村・今福村において打ちこわしを行うと大田和村馬籠(以上の村はいずれも中央市)において合流し、笛吹川を渡河し八代郡西郡筋上野村(市川三郷町)を経て市川陣屋の存在する市川大門村に到達する。市川代官山口鉄五郎は病床にあり、鎮圧の指揮は手代の高島仁左衛門が行っていたが多勢の前に退去する。騒動勢は市川大門村でも打ちこわしを行い、頭取である無宿髪結の九兵衛は空砲であるが持参した鉄砲で威嚇を行い、騒動勢への参加動員を強要したという。 騒動勢はさらに駿州往還を南下すると鰍沢宿において打ちこわしを行うが、その後は駿州往還を戻り北上し、西郡筋青柳宿、最勝寺村、天神中条村、長沢村(以上富士川町)において打ちこわしを続け、西郡筋荊沢宿(南アルプス市)に至る。荊沢宿においては村民からの反撃を受けるが、騒動勢はさらに韮崎宿から山口口留番所を越えて西大武川村(北杜市白州町)に至り、甲信国境付近まで達した。 8月23日に甲府町方における打ちこわしを許した甲府勤番永見伊勢守・甲府代官井上十左衛門は信濃国諏訪藩に出兵を要請し、国中諸村に対し一揆勢の殺害を布達し、打ちこわしの報を受けた甲府盆地の諸村では独自に情報収集を行い防衛に務めている。 また、御嶽山金桜神社の御師衆など、積極的に騒動鎮圧に参加するものも見られた。信濃諏訪藩では24日中に藩兵を派遣するが、郡内勢の帰村や騒動の収束を確認すると28日には甲府を訪問し、信濃へ戻った。幕府では駿河国沼津藩、信濃高遠藩に対しても派兵を命じているが、両藩とも騒動の鎮圧を確認するとまもなく引き揚げている。 天保騒動に対して伊豆国・駿河国・武蔵国・相模国の幕領を管轄する韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)も、騒動の波及を危惧して情報収拾に務めている。江川は騒動の発生した天保7年8月に伊豆・駿河の廻村を終えて韮山代官所へ帰還したところで騒動の発生を知り、幕領である武蔵・相模への波及を警戒し同月29日に手代の斎藤弥九郎らとともに甲斐へ向かっている。江川は9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると帰還した。
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