教会改革とグレゴリウス暦の採用
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「グレゴリウス13世 (ローマ教皇)」の記事における「教会改革とグレゴリウス暦の採用」の解説
1572年5月、教皇ピウス5世の死去を受けておこなわれたコンクラーヴェにおいてブオンコンパーニ枢機卿が新教皇に選ばれ、グレゴリウス13世を名乗った。教皇位についた彼がまず全精力を傾けて取り組んだのは教会改革であった。特にトリエント公会議の決議の実施を徹底させ、不在司教が問題になっていたことを受けて司教や枢機卿は自らの担当地域に住むことを徹底させた。さらに公会議後に実施されることが決まっていた禁書目録の作成を実行するため委員会を任命している。 グレゴリウス13世治世の事跡でもっとも有名なものは、「グレゴリオ暦」として知られる新暦の採用である。ユリウス暦のずれはすでに数百年前にロジャー・ベーコンによっても指摘されていたが、トリエント公会議において教皇庁への委託業務として新暦の研究が決定されていた。これを受けて教皇はこの業務のためシルレト枢機卿を長とする委員会を設立して検討させた。委員会の中には当代随一の天文学者であったドイツのイエズス会員クリストファー・クラヴィウスも含まれており、時代の先端をゆく科学的事業であった。この委員会の研究と決定を受けて1582年2月に暦の切り替えの勅令が発せられ、暦の切り替えは1582年10月におこなわれることになった。まずカトリックの国であるイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで採用され、ユリウス暦の1582年10月5日が10月15日に改められた。 プロテスタント諸国は当時、暦であってもカトリックの影響力を受けるのは不本意としてグレゴリオ暦を受け入れなかった。また、正教会にあっては教会暦の変更は奉神礼の日時に多大な影響を被るものであり、ローマ・カトリック教会の独断で教会暦が変更される事は受け入れられるものではなく、新暦採用は東西教会の亀裂を深めた。しかしやがてこの暦はプロテスタント諸国・正教諸国を含めた世界中で採用されることになり、現代に至っている。ただし正教会に属する教会のうち幾つかの教会(エルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会など)では、当該地域の世俗国家はグレゴリオ暦を使用していても(イスラエル、ロシア、日本など)、依然として教会内ではユリウス暦が使用されている。 また、法学者としてピウス5世時代に始められた教会法の改訂もおこなわせており、『教会法集成』として完成させた。
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