ジョン王の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:56 UTC 版)
「イングランド教会史」の記事における「ジョン王の時代」の解説
イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルターが1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。 教皇は王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。この決定にジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任のウォルターはカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代の国王リチャード1世が十字軍遠征に参加して不在の間、国内の政治をとって安定を守つなど、カンタベリー大司教はイングランド国内にあって王の高級官僚としての役割も担っていた。カンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例(クラレンドン法)があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇はイングランドの全教会の聖務停止を科し、ジョン王は報復として教会財産の没収を命じた。 この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権は大司教選挙施行の許可権と選挙結果への同意権を確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなった。
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