クラレンドン法とは? わかりやすく解説

クラレンドン法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/08 13:24 UTC 版)

クラレンドン法(英:Constitutions of Clarendon)は、1164年イングランド国王ヘンリー2世によって制定された一連の立法上の手続きのことで、主に教会の管轄領域に対しての立法制定を指す。この法は教会と世俗法の領域への王権の拡大をもたらし、ヘンリー2世の治世に見られた王権の拡大の一部分をなした。

経過

当時のイングランドの状況と「堕落した聖職者」問題

この時代、イングランドでは大陸とは異なる独自の法慣習(コモン・ロー)がすでに一定の定着を見ていたが、一方で若い聖職者たちがイタリアに留学して持ち帰った教会法も取り入れられていた。イングランド土着の法慣習と教会法の間では、裁定や制度にかなりの相違があった上、教会法では最終的に教皇が上訴を受け入れることになっていたために、裁判権を確立したい王権との間に摩擦が生じた。同時に教会法に基づく裁判では、裁判手数料が教会に納められていたことや、教会所領についても教会法での裁判が行われていたために、この点でも裁判制度の一元化を目指す王権にとって障碍であった。そのためヘンリー2世が王権の拡大を目指していけば、いずれはこの教会法との衝突を避けられず、その結果がクラレンドン法と呼ばれる一連の立法であった。

立法の当初の目的は「堕落した聖職者」の問題に対処することだった。すなわち重罪を犯したにもかかわらず、教会裁判所で審議を受けたがために、厳罰を免れた聖職者について非難が上がり、論争となっていたのである。王が主催する一般の法廷とは異なり、聖職者の犯罪は特別な教会裁判所で裁かれたが、教会裁判所の判決は王の法廷より緩いものであった。聖職者による殺人については、教会裁判の判決では多くの場合、被告から聖位を剥奪するのみで終わったのに対し、王の法廷では、殺人罪に対して死罪斬罪という重い罰則が適用された。

ベケットの死と顛末

この問題に対し、ヘンリー2世はクラレンドン法で、教会裁判所が聖職者を裁判し、聖位を剥奪した場合、教会はすでにこの犯罪を犯した元聖職者を保護すべきでなく、さらに王の法廷でこの元聖職者を罰することができると定めることによって、この問題を解決しようとした。これに対し、当時のカンタベリー大司教であったトマス・ベケットは、特に「堕落した聖職者」に関する条項に強い反発を示した。ベケットは、どのような人物に対してであれ、同一犯罪に対し二度も罰則を課すことは「二重の危険」("double jeopardy")に他ならないとした。このベケットの批判に対し、ヘンリー2世はベケットとその親族の追放で応じた。

しかし、教皇がこの法に対して否定的な見解を表明するまで、イングランドの大部分の司教はこの条項に関して合意していた。激烈な論争の末、1170年12月29日にベケットは殺害された。このことによってベケットは殉教者として大変な尊崇を集めるようになったので、王は教会に妥協せざるを得なくなり、反逆罪で告発された以外の聖職者は教会裁判所で裁かれることが改めて定められ、クラレンドン法の条項の多くも廃止されたが、その残りは法慣習として定着した。国王裁判所の活動が活発化することにより、世俗の領域と宗教の領域との間に一線が引かれるようになったと評価できる[1]

参考文献

  • 今井登志喜著『英国社会史 上』東京大学出版会、2001年

脚注

  1. ^ F・W・メイトランド 『イングランド憲法史』創文社、1981年、16頁。 

関連項目


クラレンドン法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:56 UTC 版)

イングランド教会史」の記事における「クラレンドン法」の解説

スティーブン王の死後、生前約束通りヘンリー2世即位してプランタジネット朝開いた新国王はイングランド無秩序状態を収拾するため、法律整備する必要性感じ裁判制度の改革乗り出したイングランドでは、ウィリアム1世時代世俗裁判所教会裁判所分離されており、聖職者教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏買収して剃髪して詐って聖職者名乗り、刑を軽くするような法の抜け道存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗刑罰異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法を制定し教会裁判所聖職者裁かれ聖位を剥奪され場合国王裁判所改め俗人として裁くことができるとし、国王許可無く聖職者教皇へ上訴することを禁じた。 これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケット教会権利擁護して国王反対した。長く追放された後、ベケットイングランド帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士殺害された。しかしこのことでベケット殉教者として崇敬されるようになり、国王譲歩せざるを得なくなった結局大逆罪に関する条項除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。 中世初期においては国王強力な掣肘にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝開始時には大陸での教会改革成果取り入れ王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代カンタベリー大司教首位権徐々に確立されイングランドおぼろげながらも一つ信仰共同体形成され始めたことは、後の国教会体制準備するものであった

※この「クラレンドン法」の解説は、「イングランド教会史」の解説の一部です。
「クラレンドン法」を含む「イングランド教会史」の記事については、「イングランド教会史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「クラレンドン法」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「クラレンドン法」の関連用語

クラレンドン法のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



クラレンドン法のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのクラレンドン法 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイングランド教会史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS