トマス・ベケット殺害事件とは? わかりやすく解説

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トマス・ベケット殺害事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:52 UTC 版)

ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「トマス・ベケット殺害事件」の解説

領国統治安定のためにはローマ教皇庁との協力欠かせないため、1160年から教皇アレクサンデル3世良好な関係を築いた同年挙行した若ヘンリーマルグリット結婚許可取り付けるために教皇接近イングランド教会首座司教たるカンタベリー大司教人事対す支持取り付けている。アレクサンデル3世としても、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世との対立ヘンリー2世支持必要だった大法官トマス・ベケットは、ヘンリー2世即位功績があり側近として重んじられカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックの薫陶を受け、ヘンリー2世信頼愛顧一身集めた腹心であり、息子若ヘンリー家庭教師任せた友人でもあった。ヘンリー2世は王による教会支配強化しようとし、政教関係の難し調整期待して1161年ベック亡き後カンタベリー大司教空位になっていたことを踏まえ、かつて大法官として重用したベケットを翌1162年カンタベリー大司教に就かせたのである。だがこの時、ベケットは「これで貴下愛顧もわれわれの友情終わりだろう。なぜなら、貴下教会事項について要求されるろうことは、私の承認できぬことだから」と語ったといわれる大司教となったベケット大法官だった頃とは打って変わって教会の自由を唱えことあるごとに王と対立した。特に、王は裁判制度整備進め上で1164年1月30日クラレンドン法クラレンドン条例とは別)を制定して「罪を犯した聖職者は、教会位階剥奪した後、国王裁判所引き渡すべし」と教会要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否したベケット同年11月2日国外追放処せられフランスへルイ7世頼り亡命したベケット教皇フランス王庇護されながらヘンリー2世との対立継続ヘンリー2世教皇圧力をかけてベケット脅かしルイ7世仲介行われた和睦交渉決裂して両者の対立終着点見えない中、1170年6月14日ヘンリー2世ウェストミンスター寺院にて、若ヘンリーの共治王戴冠式カンタベリー大司教ベケット不在時に挙行ヨーク大司教英語版)ロジャー・ド・ポン・レヴェック(英語版)が戴冠式代行)。対すベケット12月1日イングランド帰国すると、親国王派戴冠式挙行した司教たちを破門した。これにヘンリー2世激怒国王大司教暗殺望んでいると誤解した4人の騎士12月29日カンタベリー大聖堂においてヘンリー2世無断ベケット暗殺した人々ベケット殉教者見なしカトリック教会即座にベケット列聖したためヘンリー2世立場は非常に悪くなり、1172年5月21日ノルマンディーアヴランシュにて、衆人環視の中で修道士粗末な服装ベケット暗殺無関係だ宣誓しつつも鞭打ち懺悔をするとともにカンタベリー大聖堂復権教皇へ服従など教会譲歩しなければならなくなったアヴランシュ和解英語版))。この事件は、後述するようにカトリック教会への譲歩ばかりではなく臣下反逆息子たち離反まで招いたであった

※この「トマス・ベケット殺害事件」の解説は、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
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