トマス・ベケット殺害事件
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「ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「トマス・ベケット殺害事件」の解説
領国統治安定のためにはローマ教皇庁との協力も欠かせないため、1160年から教皇アレクサンデル3世と良好な関係を築いた。同年挙行した若ヘンリーとマルグリットの結婚許可を取り付けるために教皇に接近、イングランド教会の首座司教たるカンタベリー大司教の人事に対する支持も取り付けている。アレクサンデル3世としても、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世との対立でヘンリー2世の支持が必要だった。 大法官トマス・ベケットは、ヘンリー2世の即位に功績があり側近として重んじられたカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックの薫陶を受け、ヘンリー2世の信頼と愛顧を一身に集めた腹心であり、息子の若ヘンリーの家庭教師を任せた友人でもあった。ヘンリー2世は王による教会支配を強化しようとし、政教関係の難しい調整を期待して、1161年のベック亡き後にカンタベリー大司教が空位になっていたことを踏まえ、かつて大法官として重用したベケットを翌1162年にカンタベリー大司教に就かせたのである。だがこの時、ベケットは「これで貴下の愛顧もわれわれの友情も終わりだろう。なぜなら、貴下が教会事項について要求されるだろうことは、私の承認できぬことだから」と語ったといわれる。 大司教となったベケットは大法官だった頃とは打って変わって教会の自由を唱え、ことあるごとに王と対立した。特に、王は裁判制度の整備を進める上で1164年1月30日にクラレンドン法(クラレンドン条例とは別)を制定して「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否した。ベケットは同年11月2日、国外追放に処せられフランスへルイ7世を頼り亡命した。 ベケットは教皇やフランス王に庇護されながらヘンリー2世との対立を継続、ヘンリー2世も教皇に圧力をかけてベケットを脅かし、ルイ7世の仲介で行われた和睦交渉も決裂して両者の対立に終着点が見えない中、1170年6月14日、ヘンリー2世はウェストミンスター寺院にて、若ヘンリーの共治王戴冠式をカンタベリー大司教ベケットの不在の時に挙行(ヨーク大司教(英語版)ロジャー・ド・ポン・レヴェック(英語版)が戴冠式を代行)。対するベケットは12月1日にイングランドに帰国すると、親国王派で戴冠式を挙行した司教たちを破門した。これにヘンリー2世が激怒、国王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士は12月29日、カンタベリー大聖堂においてヘンリー2世に無断でベケットを暗殺した。 人々はベケットを殉教者と見なし、カトリック教会は即座にベケットを列聖したためヘンリー2世の立場は非常に悪くなり、1172年5月21日にノルマンディーのアヴランシュにて、衆人環視の中で修道士の粗末な服装でベケット暗殺に無関係だと宣誓しつつも鞭打ち・懺悔をするとともに、カンタベリー大聖堂の復権や教皇への服従など教会に譲歩しなければならなくなった(アヴランシュの和解(英語版))。この事件は、後述するようにカトリック教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反まで招いたのであった。
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