トマス・ホッブズの説に対する反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 05:43 UTC 版)
「高貴な野蛮人」の記事における「トマス・ホッブズの説に対する反応」の解説
1651年、絶対君主制を正当化するトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』(または「コモンウェルス」)が出版されると、「ソフト」および「ハード」な原始主義に関する議論が激化した。 「ハードな原始主義者」であるホッブズは、自然状態における人間の人生は「孤独で、貧乏で、不愉快で、下賤で、短い」、つまり「万人の万人に対する闘争」であると断言した。 したがって、戦争の時代の結果として生じるものが何であれ、そこでは全ての人が全ての人にとって敵となる。同じことが今の時代の結果についても言え、人は自らの能力に頼る以外の安全保障を持たずに生活し、自らで生み出したものから全てを得る。そのような状態では、産業を行うような余裕は無い。結果が不確実だからだ。その結果、地上に文化は存在し得ないだろう。通商は無く、海外からの輸入品もない。大建築もない。交通手段は無く、更なる武力を求めるに従ってそのようなものは取り払われる。地理の知識もない。時代の価値観もない。芸術もなく、文学もなく、社会もない。そして最悪なのは、継続的な恐怖、そして暴力的な死の危険である。そして人間の人生は、孤独で、貧乏で、不愉快で、下賤で、短い — Hobbes 彼自身が生きた当時の現代と前世紀におけるヨーロッパ宗教戦争への反応として、彼は王の絶対支配こそが唯一の可能な選択肢であり、さもなくば暴力と内戦による混乱が避けられないと主張した。ホッブズによるハードな原始主義は、ソフトな原始主義の伝統と同じくらい由緒があるかもしれないが、彼の使い方は新しいものだった。ホッブズは、国家が社会契約に基づいて設立され、その契約においては完全降伏者から絶対統治者に平和と安全が提供される見返りとして人は自主的に自由を放棄するとしたが、彼はハードな原始主義を使用することで、絶対統治者の正統性は神からではなく社会契約から生じたと主張した。 自然状態における人間の堕落というホッブズの見解は、絶対政府に反対する人々の間に激しい反対意見を引き起こした。 17世紀の最後の10年間で最も影響力と有効性のあった彼の対戦相手は、第3代シャフツベリ伯爵であった。シャフツベリーは、ホッブズとは対照的に、自然状態にある人間は善も悪もないが、同情の感情に基づく道徳的感覚を持ち、この感情が人間の善と慈悲の根源であり基礎であると反論した。 彼の同時代の人々(彼らの全てはリティウス、キケロ、ホラティウスなどの古典的な作家の書を読んで教育を受けた)と同様、シャフツベリーは古典時代の生活のシンプルさを賞賛した。彼は作家志望の人々に、「野蛮に過ぎない人々の間でよく見られる、単純な礼儀と無邪気なふるまいを探せ。それらは我々の通商活動によって損なわれたのだ」(Advice to an Author, Part III.iii)と促した。 自然状態における人間の堕落と言う説に対するシャフツベリーの否定意見は、当時人気があったアイルランドのエッセイスト、リチャード・スティール(1672–1729)のような同時代人によって取り上げられた。シャフツベリーとその支持者の影響を受けた18世紀の読者、特にイングランドの読者は、シャフツベリーの同情と慈悲の概念を中心として発達した感性を信奉することに夢中となった。 一方、フランスでは、政府や教会の権威を批判した人々が裁判や上訴の見込みもなく投獄される危険性があったため、検閲を回避しながらルイ14世およびルイ15世の抑圧的な統治に抗議する主要な方法として原始主義が使用された。例えば、18世紀の初めのフランスの旅行作家であるラホンタン男爵(en:Louis-Armand de Lom d'Arce de Lahontan, Baron de Lahontan)は、実際にワイアンドット族(ヒューロン・インディアン)と同じ所で一緒に生活していたが、潜在的にそのような危険性のある急進的な理神論と平等主義者に関する議論を、カナディアン・インディであるアダリオの口から語らせている。アダリオこそは、おそらく「良き」野蛮人(もしくは「高貴な」野蛮人)の中で最も印象的かつ重要な人物であり、本項の読者諸君が今や理解しているように、そうあるべくして歴史の舞台に登場せしめられたのである。 アダリオは自然宗教の称賛を歌います。(中略)社会に対して彼はある種の原始的な共産主義を提唱し、その結果として正義と幸福な生活などが得られます。(中略)彼は、文明化された哀れな人間…勇気も力もなく、自分自身の力で食物も住居も得ることができない人間に対して、思いやりをもって見ます。堕落し、道徳的に退廃し、青いコート・赤い靴下・黒い帽子・白い羽飾りと緑のリボンを着て喜んでいる哀れな人間。富と名誉を手に入れようとして、自分自身で自分の人生を常に拷問しているので、彼は自分の人生を本当に生きることはできません。もし富と名誉を得たとしても、それが実は幻影だったことが分かるでしょう。(中略)科学と芸術は腐敗の両親に過ぎません。野蛮人は親切な母親である自然の意志に従うので、従って彼は幸せです。文明化された人々とは、現実の野蛮人のことです。 — Paul Hazard、The European Mind オランダで出版されたラホンタン男爵の著作は、既存の宗教と社会的慣習に対する攻撃が物議を醸したが、非常に好評を受けた。1703年から1741年の間に、フランス語、英語、オランダ語、ドイツ語の版を含む、20を超える版が発行された。 18世紀のフランスでは、地球の遠隔地の人々、東洋の馴染みのない文明、アメリカやアフリカの純朴な民族に対する関心が鮮明でした。タキトゥスがゲルマン人を使ってローマの社会を批判したのと同様に、ボルテールやモンテスキューがヒューロン族やペルシャ人を使って西洋のマナーとモラルを鏡写しにした方法を誰もが知っています。しかし、1772年に登場したアベ・レイナルの『2つのインディーズの歴史』の7巻を調べる人はほとんどいません。しかし、それは今世紀の最も注目すべき本の1つです。その当時に即座に影響を及ぼした実用的な重要性としては、黒人奴隷制反対運動において人類愛の支持者に提供した一連の事実にありました。しかし同時に、それは教会と聖職者を尊重するシステムへの効果的な攻撃でもありました。(中略)レイナルは、キリスト教の征服者とその司祭を通じて新世界の原住民に降りかかった悲惨さという、ヨーロッパ人の良心の急所を突きました。彼は確かに熱心な進歩主義の伝道者と言うわけではありませんでした。野蛮な自然状態と最も高度に文明化された社会を比較した場合の優位性を決定することができませんでした。しかし、彼が言うには「人類とは我々がそうあらしめたいと願ったものである」、つまり人間の幸福は法律の改善に完全に依存していると見なしており、そして(中略)彼の見解は一般的に楽観的です。 — J.B. Bury、The Idea of Progress: an Inquiry into its Origins and Growth 18世紀のベストセラーの1つであったレイナルの本の中で最も扇動性のある箇所の多く、特に西半球に関する箇所は、実際はドゥニ・ディドロによって執筆されたことが現在は解っている。イギリスの研究者ジョナサン・イスラエルの『Democratic Enlightenment: Philosophy, Revolution, and Human Rights』の書評において、ジェレミー・ジェニングスは、『The History of the Two Indies』に関するジョナサン・イスラエルの見解「既存の秩序に対する最も壊滅的な一撃」から派生して「世界革命を起こした」と述べている。 アベ・レイナルが書いたと一般的に(実際は正しくないが)考えられている、ヨーロッパの植民地拡大という表向きのテーマは、ドゥニ・ディドロに植民地主義の残虐と貪欲を描写せしめるだけでなく、普遍的な人権、平等、そして専制政治と狂信のない生活に関する議論を発展せしめることをも可能にしました。他のどの啓蒙主義の作品よりも広く読まれたことにより、(中略)それは人々に彼らの悲惨さの原因を理解して反乱するように呼びかけました。 — Jeremy Jennings、Reason's Revenge: How a small group of radical philosophers made a world revolution and lost control of it to 'Rouseauist fanatics'、タイムズ文芸付録 18世紀後半に出版された、ジェームズ・クック船長とルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンビルの航海の記録を呼んだ人々は、未だキリスト教化されていない南洋に存在する、未だ汚されないエデンの園を垣間見るような気持ちになった。その人気は、ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』(1772)に影響を与え、その中でディドロはヨーロッパの性的偽善と植民地搾取を痛烈に批判している。
※この「トマス・ホッブズの説に対する反応」の解説は、「高貴な野蛮人」の解説の一部です。
「トマス・ホッブズの説に対する反応」を含む「高貴な野蛮人」の記事については、「高貴な野蛮人」の概要を参照ください。
- トマス・ホッブズの説に対する反応のページへのリンク