イングランド教会の伝統とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イングランド教会の伝統の意味・解説 

イングランド教会の伝統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「イングランド教会の伝統」の解説

ブリテン島キリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウス聖パトリック知られており、後者によってアイルランド伝道開始された。アイルランド急速にキリスト教化するのと対照的にブリテン島アングロ・サクソン人侵入を受け、一時的にキリスト教布教停滞したしかしながら563年以降アイルランドから渡った聖コルンバアイオナ島拠点スコットランド改宗着手し597年6月9日死にいたるまで熱心な布教活動続けた。ちょうど同じ年の6月2日教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンがケント王国布教開始し、やがてケント王エセルバートがキリスト教改宗し681年にはアングロサクソン全部族がキリスト教信仰するようになった。 こうしてアイルランド人ケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教開始したが、両者様々な面で相違していたために、布教めぐって摩擦対立生じることとなった両者664年ホイットビー教会会議信仰について話し合い結局この会議ではカトリック側が勝利した以後イングランドの地域ではカトリック教会優勢になった。8世紀末のデーン人侵入によって、イングランド教会は再び停滞時期迎えたが、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興なされたその後デーン人侵入第二波イングランドを襲うが、その王クヌートキリスト教徒であり、キリスト教厚く保護したエドワード懺悔王死後1066年ヘイスティングズの戦い勝利したウィリアム1世イングランド王即位してノルマン朝開始したウィリアム自身王権強化しようとして、イングランド強力な支配権打ち立てようと試みイングランド国内司教大修道院長を自ら指名し指輪司教杖与えて叙任した。このことは当時教皇庁進めていた、俗人による聖職叙任排除しようという改革運動真っ向から対立するものであった1073年グレゴリウス7世登極すると、グレゴリウスウィリアム説得して俗人叙任止めさせようとしたが、徒労終わったウィリアム勅令出してイングランド臣下国王同意しない破門宣告同意することや、司教国王無断出国すること、国内聖職者国王認めない教皇書簡受け取ることを一切禁じたウィリアム宗教政策カンタベリー大司教ランフランク協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教イングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマス服従誓願迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教首位権確立大きな前進もたらしたローマ教皇庁地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムランフランク伝統的な政教協力思想の下に、イングランド強力な政府樹立しイングランド教会独立守り抜いたランフランク後継者であるアンセルムス前任者とは対照的にローマ教皇忠実な人物であったアンセルムス明確に教皇首位権認めていたので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会対す国王干渉強く非難した。これに対し国王ウィリアム2世忠実なイングランド司教たちは、逆にアンセルムス教皇へ服従放棄するよう忠告した。つづくヘンリー1世聖職叙任に関して教皇アンセルムス歩み寄り1107年ロンドン協約結んだ。そこでは国王俗人から聖職者叙任されることは原則的に禁じられ一方国王対す臣従宣誓理由として司教叙任拒んでならないという規則設けられた。これによってイングランド国王教会対す実質的な影響力維持したしかしながら1114年カンタベリー大司教選挙において、国王推薦する候補落選するなど、国王教会政策一定の疑問投げかけられる結果もたらしたヘンリー1世の跡を継いだスティーブン王の時代混乱極め、王は自らの権力維持するために教会あらゆる譲歩をしたが、その約束果たされず、逆に国王教会対立深まった1139年国王ソールズベリー司教ロジャー逮捕投獄する事件起こりこれを機にスティーブンは聖界の支持決定的に失った1141年ウィンチェスター教会会議司教たちは、司教には国王聖別する権利があると主張しマティルダを「女支配者」 ("Domina Anglorum") として認めたスティーブン王の治世の間、イングランド実質的な内乱状態にあったが、教会はその混乱の中で影響力強め王権からの相対的な自由を獲得したスティーブン王の死後、生前約束通りヘンリー2世即位してプランタジネット朝開いた新国王はイングランド無秩序状態を収拾するため、法律整備する必要性感じ裁判制度の改革乗り出したイングランドでは、ウィリアム1世時代世俗裁判所教会裁判所分離されており、聖職者教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏買収して剃髪して詐って聖職者名乗り、刑を軽くするような法の抜け道存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗刑罰異なるこの法制度を改革することを意図しクラレンドン法制定した。これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケット一度不承不承認めたものの、のちに教会権利擁護して国王反対した。長く追放された後、ベケットイングランド帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士殺害された。しかしこのことでベケット殉教者として崇敬されるようになり、国王逆に譲歩せざるを得なくなった結局大逆罪に関する条項除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。 中世初期においては国王強力な掣肘にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝開始時には大陸での教会改革成果取り入れ王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代カンタベリー大司教首位権徐々に確立されイングランドおぼろげながらも一つ信仰共同体形成され始めたことは、後の国教会体制準備するものであった。 [先頭へ戻る]

※この「イングランド教会の伝統」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
「イングランド教会の伝統」を含む「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事については、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イングランド教会の伝統」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イングランド教会の伝統」の関連用語

イングランド教会の伝統のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イングランド教会の伝統のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中世ヨーロッパにおける教会と国家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS