イングランド教会の伝統
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「イングランド教会の伝統」の解説
ブリテン島のキリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウスや聖パトリックが知られており、後者によってアイルランド伝道が開始された。アイルランドが急速にキリスト教化するのと対照的に、ブリテン島はアングロ・サクソン人の侵入を受け、一時的にキリスト教布教が停滞した。しかしながら563年以降、アイルランドから渡った聖コルンバがアイオナ島を拠点にスコットランド改宗に着手し、597年6月9日の死にいたるまで熱心な布教活動を続けた。ちょうど同じ年の6月2日に教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンがケント王国布教を開始し、やがてケント王エセルバートがキリスト教に改宗し、681年にはアングロサクソンの全部族がキリスト教を信仰するようになった。 こうしてアイルランド人のケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教を開始したが、両者は様々な面で相違していたために、布教をめぐって摩擦や対立が生じることとなった。両者は664年、ホイットビー教会会議で信仰について話し合い、結局この会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えたが、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した。 エドワード懺悔王の死後、1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった。1073年にグレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった。ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた。ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした。ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた。 ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった。アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていたので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した。つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ。そこでは国王や俗人から聖職者が叙任されることは原則的に禁じられた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられた。これによってイングランド国王は教会に対する実質的な影響力を維持した。しかしながら、1114年のカンタベリー大司教選挙において、国王が推薦する候補が落選するなど、国王の教会政策に一定の疑問が投げかけられる結果をもたらした。ヘンリー1世の跡を継いだスティーブン王の時代は混乱を極め、王は自らの権力を維持するために教会にあらゆる譲歩をしたが、その約束は果たされず、逆に国王と教会の対立は深まった。1139年に国王がソールズベリー司教ロジャーを逮捕投獄する事件が起こり、これを機にスティーブンは聖界の支持を決定的に失った。1141年のウィンチェスター教会会議で司教たちは、司教には国王を聖別する権利があると主張し、マティルダを「女支配者」 ("Domina Anglorum") として認めた。スティーブン王の治世の間、イングランドは実質的な内乱状態にあったが、教会はその混乱の中で影響力を強め、王権からの相対的な自由を獲得した。 スティーブン王の死後、生前の約束通りヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。新国王はイングランドの無秩序状態を収拾するため、法律を整備する必要性を感じ、裁判制度の改革に乗り出した。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されており、聖職者は教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者の特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏を買収して剃髪して詐って聖職者を名乗り、刑を軽くするような法の抜け道が存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗で刑罰が異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法を制定した。これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケットは一度は不承不承認めたものの、のちに教会の権利を擁護して国王に反対した。長く追放された後、ベケットはイングランドに帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士に殺害された。しかしこのことでベケットは殉教者として崇敬されるようになり、国王は逆に譲歩せざるを得なくなった。結局大逆罪に関する条項を除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。 中世の初期においては国王の強力な掣肘化にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝の開始時には大陸での教会改革の成果も取り入れ、王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代にカンタベリー大司教の首位権が徐々に確立され、イングランドにおぼろげながらも一つの信仰共同体が形成され始めたことは、後の国教会体制を準備するものであった。 [先頭へ戻る]
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