イングランド政界にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 07:00 UTC 版)
「ジョン・パーシヴァル (初代エグモント伯爵)」の記事における「イングランド政界にて」の解説
1720年代にイングランドの政治に関わるようになり、ウェールズ公ジョージ(後の国王ジョージ2世)に接近したが、1723年2月15日にアイルランド貴族であるコーク県におけるカンタークのパーシヴァル子爵に叙された。1727年にジョージ2世が即位すると三たびアイルランド枢密院の枢密顧問官を再任、同年の総選挙では約1,000ポンドを費やした上で政府からの支持を確保して、グレートブリテン庶民院議員に当選した。1728年6月にハリッジの記録長官(Recorder of Harwich)に就任、1734年4日に辞任した。 議会では概ね首相ロバート・ウォルポールを支持した。1729年2月5日に監獄委員会(gaols committee、イギリスの監獄に関する庶民院の調査委員会)の委員に任命され、以降委員会の議長ジェームス・オグルソープと協力関係になった。パーシヴァルは1708年にアイルランドジョージ・バークリーと知り合いになっており、以降の通信でバークリーがバミューダで国教会の宣教師を訓練するための植民地を創設する計画を立てていることを知っていたため(この計画は失敗した)、オグルソープの北米で新しい植民地を創設する計画(英語版)を支持、1732年6月9日にアメリカにおけるジョージア植民地設立のための信託(英語版)が国王の認可状を受けたときにはパーシヴァルが信託の会長(president)を務めた。 1733年11月6日、アイルランド貴族であるコーク県におけるエグモント伯爵に叙された。この叙爵はジョージア植民地設立への貢献とパーシヴァル自身のロビー活動によるものだったとされる。1734年イギリス総選挙では引退して、長男にあたるパーシヴァル子爵ジョン・パーシヴァルに議席を譲ろうとした。ウォルポールと1議席ずつ指名することを合意したが、ハリッジ選挙区の反パーシヴァル派はチャールズ・スタンホープ(英語版)を推し、ウォルポールの仲介もむなしくパーシヴァルは得票数3位(13票)で落選した。ただし、パーシヴァル親子は敗因を「サー・ロバート・ウォルポールの裏切り」(the treachery of Sir Robert Walpole)であると考えた。
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