イングランド法の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 15:36 UTC 版)
英国は、日本国憲法やアメリカ合衆国憲法のような憲法典を有さない。のみならず、そもそも英国法上は、国家権力を一般的・包括的に把握する機能を有する「国家」という概念が存在せず、その代わりに王(King)・女王(Queen)ないし国王(the Crown)という概念が便利なシンボルとして機能してきた。英国は、形式的に全ての権力が国王に属するとされつつも、それぞれの機構が実質的に権限を行使する、という立憲君主制をとっている。このような政治体制になったのは、英国(特にイングランド)の歴史そのものが国王との権力闘争で国王から徐々に権力を奪って国王大権を制限してきた歴史に他ならないからである。 その意味でイングランド法の歴史は、1066年のウィリアム征服王による封建制の確立に始まると言っていい。 ウィリアム1世は、国王を補佐する「バロン」と呼ばれる直臣貴族からなる「王会」(Curia Regis)を設置し、強固な封建的支配体制を確立しつつも、古来からのゲルマン的慣習を尊重するという妥協的な政策をとった。そのため、慣習から「発見」(discover)されるものであるコモン・ローは、人の手によって変更することができないものとされた。このように、イングランド法における「法」(Law)とは、成文化された「法律」(a law, laws)のことでなく、判例が第一次的な法源とされる不文法・慣習法のことであり、それゆえに中世の慣習との歴史的継続性が強調されるのである。 1154年にヘンリー2世が神判を禁止して陪審制を復活させ、各地方に国王直属の多数の裁判官を派遣する巡回裁判(assize)制度を創設したことがコモン・ローの発達を促し、これがイングランド法に固有の、そして、後に英米法体系の国々に引き継がれることになる、特徴を形成していった。その意味でイングランド法の歴史は、コモン・ローの歴史でもある。詳細はコモン・ロー、英米法の特色を参照。 1215年のマグナ・カルタは、コモン・ローが王権に対しても優位することを確認するものであるが、あくまでその内容は、バロンの中世的な特権を保障するものに過ぎなかった。にも関わらず、これが後に歴史的な継続性の強調によって法の支配と結びついて復活し、基本的人権を保障する近代立憲主義の理論として重大な役割を果たすようになった。 その後、王会は、大評議会と小評議会とに分かれた。大評議会は、後に貴族が王宮の議事堂で会議するようになったことから、これが貴族院(House of Lords)に発展し、他方で庶民は、ウェストミンスター大修道院の食堂で会議を開くようになり、これが庶民院(House of Commons)に発展した。このことが、貴族のみならず、庶民(commoner)の政治的な権限が増大して行く契機となった。 一方、小評議会は、後に国王評議会(King's council)に発展した上で、財務府と大法官とに分かれた。1272年にエドワード1世が即位すると、国王が自ら裁判所を主宰することもなくなったことから、財務府は、「王座裁判所」(Court of King's Bench)、「財務府裁判所」(Court of Exchequer) 、「人民間訴訟裁判所」(Court of Common Pleas)の3つに分かれて発展し、コモン・ロー裁判所(common-law court)と呼ばれるようになった。 13世紀から15世紀にかけて法曹のギルドである法曹院が創設されて行ったことで高度な専門教育が為されるようになり、法廷弁護士が事務弁護士との職域争いで勝利していく過程で法曹一元制が確立し、そして、コモン・ローの王権に対する優位を根拠に、国王から徐々に独立して権限が行使されるに至った。他方で、このことがコモン・ローの形式化・硬直化という弊害を生みだし、これがエクイティを発展させることとなり、現在のコモン・ローとエクイティとの法の二元性を形成するきっかけとなった。 また、法曹院による専門教育と一般の素人による陪審員制度という正反対の性質の制度が組み合わさることにより、現代に至る様々なコモン・ローの特色が形成された。陪審制の下では、素人でも適正な判断をすることができるようにする必要があり、その判断のための一定の基準が判例によって徐々に形成されて行った。その結果、イングランド法では、実体法が手続法の隙間から滲み出て来る、という性質を有するに至り、大陸法体系における総則規定や抽象的な法律行為等の専門的な概念を嫌うようになった。同様に、この素人にも適正な判断ができるようにするという見地から、当事者主義(adversarial system)、口頭主義、直接主義、伝聞法則等に支えられた高度で専門的な法廷技術が発展したのである。 1688年、メアリー、そして、その夫でオランダ統領のウィリアム3世(ウィレム3世)、この2人をイングランド王位に即位させた名誉革命が起こり、これを受けて、1689年に権利章典、1701年に王位継承法が成立することにより、議会が国王との権力抗争で最終的な勝利を手に入れた。その結果、議会の意思が国内において絶対的な効力を有するものとされ、「女を男にし、男を女にすること以外は何でもできる」と表現された「国会主権」(議会主権とも。Parliamentary Sovereignty)が確立された。これは、日本のように国民主権概念が当然とされている国からすると分かりにくい概念であるが、主権をもつ「議会における国王」(King in Parliament)とは、国王が貴族院や庶民院と並んで議会を構成するものとされ、立憲君主制と矛盾しない概念とされていることを念頭に置けば、英国の歴史に即した概念であることを理解できる。 また、1701年王位継承法が裁判官の身分保障を規定したことにより、法の支配が現実の制度として確立され、法の下の平等に従い、通常裁判所を通じて市民的自由を保障することが必要とされ、その結果、司法権の役割が重視されることになった。以後、法の支配は、国会主権(議会主権)と並ぶイギリス憲法の二大原理とされるようになった。 英国では、権力分立は、日本やアメリカ合衆国の三権分立のような、立法権、行政権、司法権の三権で考えるのでなく、国王、貴族院、庶民院の3つの権力が議会の内部における均衡と抑制とを図ることにより、市民的自由を保障する原理である、と考えられている。 英国では、立法権と司法権との分立が厳格でなく、議会が裁判所の機能を併有してきた歴史があり、貴族院が最高裁判所に該当する機関であったことや、その議長であった大法官が最高裁判所の長にも該当したことも、英国に独特の権力分立のあり方といえる。 貴族院の判決は、先例(判例法)として自ら(貴族院)を含む全ての裁判所を拘束し、議会による立法によってしか修正や廃止をすることができない、という厳格な先例拘束性の原理が採用されている。例えば、謀殺は、コモン・ロー上の犯罪であり、裁判所の憲法上の権限および先例によって違法とされる。したがって、謀殺を違法とする成文化された制定法は、英国に存在しない。謀殺には、従来、死刑が許容されていたが、1998年、議会による修正を受け、無期刑が義務付けられている。現在も効力を遺す最古の法律は、1267年(52 Hen. 3)マールバラ法(Statute of Marlborough)の一部であるthe Distress Actである。マグナ・カルタの3つの節は、1215年に調印され、イングランド法の発達にとって大きな出来事であったが、法律に統合されたのは1297年であったとみられる。 内閣(Cabinet)は、17世紀の後半に、国王を補佐する枢密顧問官が集まって国の方針を決めたことから始まり、1714年にジョージ1世が即位すると、国王が自ら出席することもなくなり、ウォルポールが閣議を主宰するようになったことから、徐々に首相という地位が形成されていった。 以後、国王の「君臨すれど統治せず」との慣行が憲法的習律として不文の憲法となり、英国の立憲君主制が完成するのである。
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