イングランド無敵艦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:40 UTC 版)
「英西戦争 (1585年-1604年)」の記事における「イングランド無敵艦隊」の解説
詳細は「en:English Armada」を参照 アルマダの海戦は決定的な戦いではなく、「プロテスタントの風」は戦争を終わらせもしなかった。1589年、ドレークとジョン・ノリス率いる艦隊がスペイン北部のサンタンデールやア・コルーニャ、サン・セバスティアンで修復中の無敵艦隊の生き残りを殲滅すべく派遣された。この遠征はまたスペイン財宝船団の鹵獲、そしてポルトガル王位継承権を主張するドン・アントニオを擁して、1580年以来フェリペ2世の統治下にあるポルトガルからスペイン勢力を駆逐することも目的としていた。この遠征が目標を達成すればスペインは和平を乞うはずだったが、組織力の欠如と過度の慎重さにより、侵攻軍は甚大な被害を出して撃退され、リスボン攻略に失敗した。遠征軍には疫病が蔓延し、最後にはアゾレス諸島に向かったドレークの分遣隊が嵐のために散りぢりになってしまう。結局、エリザベスは遠征軍の財源を賄おうと複数の目標を強要し、逆に国庫に多大な損失を蒙る結果となってしまった。 小康期間にスペインは海軍の修復と再編をなした。艦隊の誇りは12隻の巨大な新型ガレオン船からなる「十二使徒」(Twelve Apostles)であり、海軍は1588年のものよりも遥かに強力になった。1590年代の洗練された護送船団方式と向上した情報網はイングランドの海賊行為を頓挫させた。これは1590年代初めのマーティン・フロビッシャー (en) とジョン・ホーキンス、カンバーランド伯の遠征隊の失敗や、1591年のアゾレス諸島近くで財宝船団を襲撃したエフィンガム率いるイングランド艦隊の撃退に最も良く現れている。勇敢な船長リチャード・グレンビル (en) が最後まで奮戦し、イングランド軍旗艦リベンジ号 (en) が捕獲されたのはこの戦いの際である。1590年代を通じて、護送船団は1580年代の3倍の黄金や銀をスペインへ輸送している。 イングランドは1595年から1596年にプエルトリコ、パナマなどスパニッシュ・メインに海軍遠征隊を派遣 (en) したが、多くの兵員と船を失う手痛い敗北を喫し、ドレークとホーキンスもこの際に病没した。また、1595年には英仏海峡を哨戒していたドン・カルロス・アメスキンタ (en) が西イングランドのコーンウォールに兵を上陸させた。アメスキンタは軍需品を鹵獲し、ペンザンス (en) とその周辺の村々を焼き払い、ミサを開き敵と遭遇する前に立ち去っている。 1596年6月、チャールズ・ハワード卿とエリザベスの寵臣エセックス伯が率いる英蘭遠征軍がカディス港襲撃に成功し、スペイン船100隻以上を破壊し、町を破壊した。だが、スペイン軍司令官は港湾内の財宝船を焼き払う余裕を得て、金貨1,200万ダカットが沈められた。これは後にスペインによって引き揚げられており、襲撃者には何ら得る物がなかった。
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