ベケットの死と顛末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:45 UTC 版)
「クラレンドン法」の記事における「ベケットの死と顛末」の解説
この問題に対し、ヘンリー2世はクラレンドン法で、教会裁判所が聖職者を裁判し、聖位を剥奪した場合、教会はすでにこの犯罪を犯した元聖職者を保護すべきでなく、さらに王の法廷でこの元聖職者を罰することができると定めることによって、この問題を解決しようとした。これに対し、当時のカンタベリー大司教であったトマス・ベケットは、特に「堕落した聖職者」に関する条項に強い反発を示した。ベケットは、どのような人物に対してであれ、同一犯罪に対し二度も罰則を課すことは「二重の危険」("double jeopardy")に他ならないとした。このベケットの批判に対し、ヘンリー2世はベケットとその親族の追放で応じた。 しかし、教皇がこの法に対して否定的な見解を表明するまで、イングランドの大部分の司教はこの条項に関して合意していた。激烈な論争の末、1170年12月29日にベケットは殺害された。このことによってベケットは殉教者として大変な尊崇を集めるようになったので、王は教会に妥協せざるを得なくなり、反逆罪で告発された以外の聖職者は教会裁判所で裁かれることが改めて定められ、クラレンドン法の条項の多くも廃止されたが、その残りは法慣習として定着した。国王裁判所の活動が活発化することにより、世俗の領域と宗教の領域との間に一線が引かれるようになったと評価できる。
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