当時のイングランドの状況と「堕落した聖職者」問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:45 UTC 版)
「クラレンドン法」の記事における「当時のイングランドの状況と「堕落した聖職者」問題」の解説
この時代、イングランドでは大陸とは異なる独自の法慣習(コモン・ロー)がすでに一定の定着を見ていたが、一方で若い聖職者たちがイタリアに留学して持ち帰った教会法も取り入れられていた。イングランド土着の法慣習と教会法の間では、裁定や制度にかなりの相違があった上、教会法では最終的に教皇が上訴を受け入れることになっていたために、裁判権を確立したい王権との間に摩擦が生じた。同時に教会法に基づく裁判では、裁判手数料が教会に納められていたことや、教会所領についても教会法での裁判が行われていたために、この点でも裁判制度の一元化を目指す王権にとって障碍であった。そのためヘンリー2世が王権の拡大を目指していけば、いずれはこの教会法との衝突を避けられず、その結果がクラレンドン法と呼ばれる一連の立法であった。 立法の当初の目的は「堕落した聖職者」の問題に対処することだった。すなわち重罪を犯したにもかかわらず、教会裁判所で審議を受けたがために、厳罰を免れた聖職者について非難が上がり、論争となっていたのである。王が主催する一般の法廷とは異なり、聖職者の犯罪は特別な教会裁判所で裁かれたが、教会裁判所の判決は王の法廷より緩いものであった。聖職者による殺人については、教会裁判の判決では多くの場合、被告から聖位を剥奪するのみで終わったのに対し、王の法廷では、殺人罪に対して死罪か斬罪という重い罰則が適用された。
※この「当時のイングランドの状況と「堕落した聖職者」問題」の解説は、「クラレンドン法」の解説の一部です。
「当時のイングランドの状況と「堕落した聖職者」問題」を含む「クラレンドン法」の記事については、「クラレンドン法」の概要を参照ください。
- 当時のイングランドの状況と「堕落した聖職者」問題のページへのリンク