当時のオーストラリアの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 13:46 UTC 版)
「ネッド・ケリー」の記事における「当時のオーストラリアの状況」の解説
イギリスには囲い込みで土地を失った者や職を失い犯罪者となるものが多く、政情不安の一因となっていた。当初、それにより発生した囚人はアメリカに送られていたが、アメリカ独立戦争により犯罪者の流刑地を失い、代わって目をつけられたのが18世紀末にジェームズ・クックによって発見されたオーストラリアだった。そのためオーストラリアは囚人たちの新たな流刑地となり、その監視として軍隊もまた派遣された。だが軍の一部はオーストラリアに定住し、土地と羊を専有して囚人を労働力として私物化した。彼らは地主階級となってオーストラリアの支配層を形成したが、そのために囚人たちは小農民(セレクタ)としての生活が強いられた。一方で1829年には自由移民が許可され、その新たな住人たちの要望によってイギリスからの囚人の流刑は減少していった。1851年からはゴールドラッシュによって自由移民が押し寄せ、植民地としての統治体制が急速に整っていく。1850年代には憲法と議会を持つ五つの植民州が成立し、オーストラリアからかつての流刑地としての姿は急速に消滅しつつあった。経済面でも鉄道や銀行といった流通と経済のインフラが整い、牧羊業中心の経済からの転換と発展が徐々に進んでいた。しかし元囚人とその子孫は恩恵を受けることができない白人の最下層であり、ほとんどの者が厳しい生活を送っていた。
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