当時の「河野」の読み方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:38 UTC 版)
現代では一般的に、河野は「こうの」と読まれていることも多い。しかし、『平家物語』にも記されているように、往年、河野氏が台頭していた当時においては、河野氏はそのまま「かわの」と呼ばれていたことが窺える。 古くは延慶年間(1308~1311年)に書写が成されて、平家物語の諸本中で現状、最古の物とされる所謂、延慶本の中に於いて、河野氏を「川野」などと記述している事からも、その事実が読み取れる。 加えて、当時を知る竹崎季長が描かせた、鎌倉時代の絵詞にも、河野通有を「かはのゝ六らうみちあり」と記している他、 河野通忠を「かハのゝ八郎」、河野通信を「みちのぶ乃かはのゝ四郎」と記している。 また、江戸時代初期の元和年間(1615~1624年)中に出版された流布本などにも河野は、やはり「かはの」と記述されている。 この事などから、少なくとも延慶年間以降、或いは河野宗家が滅亡した戦国期以降、近世において次第に、「かはの(かわの)」が「かうの(こうの)」へと転訛して行き、河野氏の影響力の低下などにより、残った一部の苗裔の伝を除き、正統な呼称が世間から経年につれて忘れ去られ、現在に多く見られるような、「こうの」の読み方が一般的に広まっていったとも考えられる。 (名称などが転訛した例の一部としては、「神戸(かむべ、かんべ、等)」が、「こうべ」へと読みが変化していったことや、また単なる横訛りに留まらず、長野県に関する「筑摩(つかま)」の呼び方が、明治時代から「ちくま」へと変化、一般化したことなどが挙げられる。) 或いは、明治期における四民平等に際し、三民の姓の普及などによって、単に「かわの」を「こうの」と誤読した(または転訛した)ものが多く広まり、一般化したという様な推測の余地も生じる得るが、「かわの」から「こうの」読みへの変化は、いつ頃から、どのような経緯などによるものかは現在明らかになっていない。 何れにしても、明治時代から士分等に限らず、誰しもが姓を冠するようになってより、「河野(かわの)」を「こうの」と呼ぶ風潮に拍車が掛かったのであろうということを鑑みることができる。 なお、現在でも九州では、かつて豊後国、日向国などに移住などをした河野氏一族のために河野(かわの)姓が多く、その後裔が(また、後裔に限らず)、当時の河野の読みの古態を今に伝えている("伊予国以外の河野氏"の項目も参照)。
※この「当時の「河野」の読み方」の解説は、「河野氏」の解説の一部です。
「当時の「河野」の読み方」を含む「河野氏」の記事については、「河野氏」の概要を参照ください。
- 当時の「河野」の読み方のページへのリンク