伊予国以外の河野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:38 UTC 版)
宮崎県と大分県奥豊後地方に河野(かわの)姓が多い。とくに宮崎県の河野氏は『都城市史』には南北朝時代に伊予より日向に上陸したとの記述がある。南北朝時代以前の絵詞等では河野氏は「かわの」と記されており、南北朝時代以降、時代が下るにつれ「こうの」という読み方に変化していったと考えられている。 (これに就いて、現在、かつての本拠であった愛媛の地に於てですら「かうの(こうの)」読みが一般的となってしまっているが、河野氏は戦国時代に敗れ、本拠であった伊予の地から立ち退かされる形となったのであり、それ以降、伊予では度々、他家の入封が行われ、結果、主に伊予の地域は松平家の領地となり以来、明治維新まで松山藩等の治める地となったのである。その更に後世である今の愛媛に、敗れ去って行った曾ての領主一族の正確な呼称が人伝えに残っていないのも当然であろうと考えられ得る。 加えて、九州の一部に「かわの」読みが多く残っていることについて、伊予に程近く、度々、河野一族の者が多く移住し、その寄る辺となっていた日向国(宮崎県)の沿岸地域、延いては九州地方の血族、その苗裔が河野宗家が存続していた当時からの正確な呼称であった、「かはの(かわの)」の読みを今に残していることは実情によく適っていると言える。) 『小林市史』には河野通貫の代の貞治5年(1366年)6月宮崎郡下着、その後数代を経て河野伊予守正弘の代に日向国三俣院高城の有水村に居住して長峯門を領し、長峯土佐守と称した。更にその後数代経て長峯玄蕃允通貴の代に真幸院三之山東方村赤木門を知行したので孫の通信の代に赤木氏を称するようになったとある。また『宮崎県史 史料編』では、室町時代の享禄4年真幸院の在地領主として河野四郎通安の名前を見ることができる。いずれも通字として河野氏の通字「通」を継承しており、中世よりつながりがあると伝わる。 『河野・川野一族』によれば、河野通信の子得能通俊の子孫が日向に移住、伊東氏に属した。児湯郡に河野姓が多いのは伊東氏に属し、土着したためとある。 戦国時代に武田信玄によって武田水軍が編成された際に、河野氏の一部が武田氏の傘下に入り、水軍の技術を伝えている。その子孫は山梨県や静岡県に見られる[要出典]。 越前国の河野村は、南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦に破れ、流浪の末に築いた村といわれる。現在も河野家と同じ家紋を瓦に残している[要出典]。
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