伊予吉田藩との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:34 UTC 版)
秀宗は遺言により五男・宗純に3万石を分知したが、それによって宇和島藩は実質的に7万石となり、準国主大名から城主大名に転落してしまうため、この分知の正統性をめぐり長期にわたって係争が続いた。 最終的に、宇和島藩は元禄9年(1696年)、3代藩主伊達宗贇の時に新田開発を理由に7万石から10万石への領地石高修正を幕府によって認められ、そのかわりに伊予吉田藩の正式独立が認められ、決着した。10万石への石高修正は認められたが、宇和島藩の実高は7万石であったため、さらに新田開発や産業振興に努めたものの、藩財政は疲弊した。一方、伊予吉田藩もこの独立を機に宇和島藩と友好関係を結び、実質上宇和島支藩的な存在に変わっていく。
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