伊予大森氏系田中氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 03:34 UTC 版)
田中氏は、豊臣秀吉の四国征伐で河野氏が滅亡した後、松山藩で砥部20村の大庄屋を務め、関ヶ原の戦いの後も、引き続き、大洲藩に移された砥部の大庄屋として寛保元年(1741年)、田中喜左衛門権内が砥部騒動を引き起こすまで続くことになる。 上代の系図は尊卑分脈や源家隈部系図に詳しいが、いくらかの相違もある。それらでは 大森二郎茂治 -- 三郎治員 -- 行治 -- 彦二郎盛治 -- 彦七盛長 -- 太郎盛家 の順であるが、砥部大森氏にあっては、彦二郎盛治が次郎佐衛門盛清とされている。
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