ジョン欠地王の統治と崩壊(1199年から1217年)
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「アンジュー帝国」の記事における「ジョン欠地王の統治と崩壊(1199年から1217年)」の解説
ジョンは自らの所領を維持しなければならず、未だ王ではなかった。リチャード1世戦死の報を聞いたフィリップ2世は素早くエヴルーを占領した。ジョンは自らの力に物を言わせてアンジュー家の財産とシノン城の掌握を努めた。しかしながら当地の習慣では、兄の息子が要求者となることが好まれていた。それ以後はブルターニュ公ジョフロワ2世の息子アルテュールが支配者と見做され、ジョンからアンジュー家代々の土地を取り上げた。ノルマンディーとイングランドのみがジョンの支配を受け入れた。ジョン欠地王は1199年4月にルーアンでノルマンディー公となり、ウェストミンスター寺院でイングランド王に即位した。ジョンは母のアリエノールをアキテーヌの統治のために残した。 ジョンの同盟者であるエメリ・ド・トゥアールと3人のリュジニャンの貴族は、アルテュールの捕縛とジョンを伯とするのを試みるためにトゥールを攻撃した。エメリは、もしアルテュールを捕虜にしたら、セネシャル(軍事権を持つ代官・執事)の地位を約束されていた。この頃までにジョンはフィリップ2世と休戦するためにノルマンディーに赴いた。ジョンはこの休戦でリチャード1世の嘗ての同盟者、特にブローニュ伯、フランドル伯、神聖ローマ皇帝といった面々を獲得するといった利益を得た。少なくとも15のフランスの伯がジョンの同盟者となることを誓った。ジョンは今ではフィリップ2世よりも強力な立場にあった。国王の強力な支援者であるギヨーム・デ・ロシェですら強力な力の前にジョン側に転じ、保護すべきであったアルテュールを引き渡した。アルテュールはすぐにフィリップ2世の宮廷へ逃走しようとした。1199年にフランドル伯と数多の騎士が第4回十字軍への参加した時こそ、ジョンの宮廷が見捨てられた瞬間であった。ジョンの優位は短命なものであり、1200年にル・グレ条約を受け入れざるを得なかった。フィリップ2世はオーヴェニュとベリーの譲渡に加えて、占領したノルマンディーの領有を認められた。ジョンはボードゥアン4世やオットー4世がフィリップ2世を攻撃してもこれに干渉しないという誓いの見返りに、アンジュー家の当主となることを認められた。
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