ル・グレ条約
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「フランスのノルマンディー侵攻 (1202年-1204年)」の記事における「ル・グレ条約」の解説
1200年、イングランド王ジョンはフランス王フィリップ2世とル・グレ条約(英語版)を締結した。この条約はフランスの勝利に基づくフランス側が有利な講和条約であり、ノルマンディーにおける英仏両国間の紛争を終結させ、ノルマンディーにおける国境を確定した。また大陸領におけるジョン王の立場をフランス王を宗主下とすることも取り決められた。しかしながら、この講和は2年しか続かなかった。1200年8月、ジョンはフランス貴族の娘イザベラ・オブ・アングレームと新たに結婚することを決めたのち、再びフランスとの戦争を開始した。イザベルと再婚するために、ジョンは当時の妃であったイザベル・オブ・グロスターと離婚した。イザベラとの結婚によりアングレームという、ポワトゥーとガスコーニュを結ぶ戦略的に重要な地域を得たジョン王は、フランス南西部のイングランド領アキテーヌに対する影響力を強めることに成功した。 しかしながら、ジョンと結婚したイザベラはなんと、ポワトゥーにおける重要な貴族、ユーグ10世・ド・リュジニャンと婚約の身であったのだ。ユーグ10世とは、ノルマンディー東部の極めて重要な地域ウー伯領を領地とするラウール1世・ド・リュジニャン(英語版)の弟である 。ジョンがイザベラとの結婚で戦略的に重要な場所を手に入れたのと同時に、ジョンは、アキテーヌへの重要な補給ルートを領していたリュジニャン家とイングランド王家との良好な関係を脅かしてしまったのだった。さらにジョンは、リュジニャン家を軽視し、この事件に対する補償・補填を一切しなかったという。このジョンの横暴にリュジニャン家は激怒し、宗主イングランド王ジョンに対して反乱を起こした。しかし、敢えなくリュジニャン家の反乱は鎮圧され、ウー伯ラウール1世もまた、ジョン王からの圧力に苦しめられた。 当時のジョン王はポワトゥー伯も兼任していたため、リュジニャン家からするとジョンは正式な上級君主であったものの、ジョン王は大陸ではフランス王フィリップ2世の宗主下に置かれていたため、リュジニャン家はジョン王の封建領主、フランス王フィリップに対してジョン王の横暴を報告し、支援を求めることも法的には可能であった 。そして1201年、ユーグ10世はフィリップ2世に対してジョン王の横暴(無理矢理な結婚)を訴え、裁きを求めた。フィリップ2世は1202年、ユーグ10世の報告を受け、ル・グレ条約の規約に基づいて、ジョン王に対してパリの裁判所に出頭するよう命じた。一方のジョン王は、大陸領における自身の立場を、フランス王が主催する裁判に出席することで貶めたくなかったがために、フィリップ2世の出頭要請を拒否した。ジョン王は、自身はノルマンディー公であり、ノルマンディー公は特別にフランス王の裁判所に出頭する義務が免除されていると主張したのだった 。これに対し、フィリップ2世は、今回の出頭命令はノルマンディー公としてではなく、ポワトゥー伯として命令しているために、特別な出頭義務の免除は存在しないと返答したという。それでもジョン王はフランス裁判所に出頭することはなく、フィリップ2世はついにジョン王に対して宣戦布告をした。ジョン王の封建領主としての義務を全うしなかったことに対する報復として戦争が開始された。
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