ジョン王の死
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ジョン王は、1216年10月18日、リンカンシャーにおいて死去し、彼の死とともに戦争をする理由もまたなくなってしまった。ルイは諸侯らの利益に対する警戒よりむしろ9歳になるジョン王の息子、ヘンリーを警戒しているようだった。ウィンチェスター司教のピエール・デ・ロッシュ(英語版)や多くの諸侯はイングランド王として戴冠した若きヘンリーの陣営に加わった。ロンドンはルイによって占拠されており、あたかも彼の治める政府が置かれているかのようであったため、ヘンリーの即位式に使用することができなかった。そこで諸侯は、1216年10月28日、ヘンリーをウィンチェスターのディヴァイザズ(en:Devizes)にある城からグロスター大聖堂に連れて行き、少数の参加者の前で教皇使節(en:Papal Legate)であるグアラ・ビッキエーリ(en:Guala Bicchieri)(1227年没。ヴェルチェッリの司教で、1216年~1218年の間、イングランドの教皇使節)の主宰で式が行われた。そのさい、ネックレスから作られた黄金のバンドを王冠として使用し、ヘンリーを王位につかせた。 1216年11月12日、ヘンリーの名前で再びマグナ・カルタが発行されたが、61条を含むいくつかの条項が削除されていた。改正された憲章は幼い王の摂政であるウィリアム・マーシャルによって署名された。多くの国は王太子ルイを承認したが、イングランドの南西部と中部はヘンリーの方を支持した。マーシャルは非常に尊敬される人物であり、彼は諸侯らに対して親の罪によってヘンリーを非難しないように説得をした。自身の利益に対する関心に助けられ、世論は少年から相続財産を奪うことに抵抗を感じた。さらにマーシャルは、自分とその他の摂政がマグナ・カルタを遵守することを約束し、教皇からの支持を得ることにも成功した。なお、この時点で教皇は王太子ルイを破門していた。
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