離婚と再婚
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家庭面では、妻・佳子が社交的であったのに対し、寡黙・内向的でもともと性格の不一致があった。戦後、佳子がその性格を生かして銀座のクラブで働き人気を得ると、夫婦間の齟齬はさらに広がった。また、結婚翌年に生まれた長男は戦中の血液検査から別の男性との子と分かって悩み、1951年5月に離婚した。佳子との間に儲けた2男1女のうち、長男と長女は佳子が引き取った。 次いで秩父地方出身の前田藤吉の長女・美子(よしこ)と再婚し、1952年(昭和27年)に美子との間に長男孝哉を儲けた。 ただ、美子との結婚は戸籍上は初婚扱いとなるという珍事となった。王公族は一般の戸籍でなく「王公族譜」に入っており、また1947年の身位喪失により、先妻の佳子や子女とともに在日朝鮮人となったものの、日本に在住していたため朝鮮籍への就籍手続きを取ることが出来ず、さらに1951年に離婚した際に佳子のみ日本国籍に復籍するなど、戸籍・国籍の変動の影響を受けたものである。
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離婚と再婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 15:16 UTC 版)
「レイチェル・ジャクソン」の記事における「離婚と再婚」の解説
レイチェル・ドネルソンは1785年3月1日、17歳の時にバージニア州リンカーン郡在住の地主、ルイス・ロバーズ(1758-1814)と最初の結婚をした。レイチェルが活発で気さくな性格だったのと対照的に、夫は冷酷で気が小さく、嫉妬深かったと言われている。明るい妻が他の男性と親しく冗談を言い合うだけでも不安になり、同居していたロバーズの母親でさえ、夫婦喧嘩が起こるたびにレイチェルに味方したほどだった。二人は全く性格が合わず、レイチェルはついに実家に帰ってしまった。後年にレイチェルは1788年に夫に家から追い出されたと述べたが、ロバーズは妻が何の理由も無しに自分を見捨てたと主張した。 レイチェルはナッシュビルで宿屋を経営している母の元へ戻り、そこに下宿していた新進気鋭の弁護士アンドリュー・ジャクソンと直ぐに親しくなった。両者を知る多くの人物がレイチェルは長老派を信仰する敬虔な女性であったジャクソンの母親、エリザベス·ハッチンソン・ジャクソンによく似ていたと述べている。 まだ未練のあるロバーズは妻を連れ戻すためにナッシュビルにやってきて二人の関係を疑い、文句を言い出した。ジャクソンはロバーズを呼び出し、「今度、そんな言い方で私の名をレイチェルと結び付けたらお前の耳を引っこ抜いてやるぞ」というような言葉で彼を脅迫した。この脅迫が原因でジャクソンは監視官によって連行されたが、許可を得て肉切り包丁を持参し、ロバーズを睨み付けた。これに怯えたロバーズが突然逃げ出したため、ジャクソンに対する令状は破棄された。その後も二人の間で言い争いが起きたが、結局はロバーズが「今後はレイチェルに近付かない」と約束することで決闘の危機は回避された。 レイチェルは1790年秋、ロバーズが妻を力づくで連れ戻そうとナッシュビルに再びやってくる計画を耳にした。夫との生活はもはや無理だと考えていた彼女は当時まだスペインが保有していた領土で、親類や友人が住むナチェズに移り、身を隠す決心をした。ジャクソンはレイチェルや彼女の知人のロバート・スターク将軍らのミシシッピ川を航海する危険な旅に護衛として同行することを決めた。ジャクソンのこの行動は有利な条件で離婚手続きを開始するために必要な証拠をロバーズに与えることになった。 ジャクソンの友人は、その後に弁護士業のために一度ナッシュビルに戻ったジャクソンが「ロバーズがレイチェルとの訴訟を起こし、離婚の判決が下りた」というニュースを耳にするや否や、直ぐにナチェズに引き返したと後年に証言している。ロバーズが離婚手続きを既に終えていると勘違いした二人は1791年8月に結婚した。二人は同年秋にはナッシュビルに戻ってジャクソンが手に入れた農場に落ち着き、この地で近隣の住人から大切にされ、尊敬されながら暮らすことになった。ジャクソンとレイチェルはロバーズが離婚手続きを完了させたという知らせを聞いた後に結婚をしたと主張したが、実際にはロバーズはその時点で離婚訴訟を起こす権利を得ていただけで、権利の行使はまだしていなかった。この期間にケンタッキー州がバージニア州から分離し、関与する政府当局が変化したことで訴訟手続きが長引いてしまい、事態をより複雑化させることになった。ケンタッキー・ガゼット(英語版)紙は1792年の2月と3月に8回にわたって「法廷に出頭してバージニア州授権法による不倫告訴に応答せよ」というレイチェル宛ての呼び出し広告を載せていたが、ジャクソンはこの広告に全く気が付かなかった。 1793年9月27日に離婚判決が下ったが、その判決理由は「レイチェル・ロバーズは未だ他の男性との姦通状態にあるため、原告人と被告人の婚姻は破棄されたものとする」というものだった。1794年1月17日にアンドリュー・ジャクソンとレイチェル・ドネルソン・ロバーズは正式に結婚式を挙げたが、この事件はレイチェルに「重婚者で姦婦」という不名誉を与えてしまった。隣人のウィリアム・B・ルイスは後年に「ジャクソン将軍と夫人にはおそらく軽率な行動があったのだろう。しかし、二人が犯罪を犯していたなどと信じる人は誰もいない。夫妻の人生全体がそんなこととはあまりに矛盾するものだからである」と書いている。
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