私生活と、政治的・公的な生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 02:38 UTC 版)
「グリエルモ・マルコーニ」の記事における「私生活と、政治的・公的な生活」の解説
結婚 1905年3月16日、アイルランドの第14代インチカン男爵エドワード・オブライエン(en)の娘ベアトリス (1882?-1976) と結婚。(なおグリエルモは、以前、カトリック教会で洗礼を受けていてカトリック信徒であった。が、この結婚に際して聖公会の信徒となり、カトリック教会の信徒名簿からは抹消された。) ベアトリスとの間に、娘を3人と息子を1人もうけた。ただし三女は生後数週間で亡くなった。 イタリア軍の通信部門責任者への就任、政党活動 第一次世界大戦ではイタリアは連合国側となり、マルコーニはイタリア軍の無線通信部門の責任者となった。最終的にイタリア陸軍では中尉、海軍では司令官となった。1915年、イギリスの豪華客船ルシタニアがアイルランド沖で撃沈され、マルコーニの友人が亡くなった。マルコーニは2日後のニューヨーク・タイムズにその事実を書いている。 1923年にマルコーニはファシスト党に参加した。 離婚と再婚 1924年にベアトリス・オブライエンと離婚。1927年にオブライエンとの結婚が正式に無効と認定され、再婚が可能になった。 1927年6月15日、マルコーニはマリア・クリスティーナ・ベッツィ=スカーリ(Maria Cristina Bezzi-Scali)と再婚。再婚時、マルコーニ自身は53歳だったのに対し 妻マリアのほうは26歳だった。(マルコーニの半分以下の年齢だったということになる。)結婚式にはベニート・ムッソリーニも列席した。グリエルモとマリアの間には1930年に娘のマリア・エレットラ・エレナ・アンナ(Maria Elettra Elena Anna)が誕生した(この二人の間の子はこの娘だけである)。 1933年11月16日、マルコーニ夫妻が日本郵船の秩父丸で来日した。これはシカゴ万国博覧会の無線イベントに出席したあと、急遽日本に立寄ることにしたものだった。東京、日光、鎌倉、京都、滋賀、奈良、大阪を観光し、11月24日に下関から船で釜山に渡った。そして京城(現在のソウル)、奉天(現在の瀋陽)、大連、旅順を観光後、中華民国の天津に向かったのが11月29日である。 晩年の政治信条 晩年のマルコーニはファシズムの熱心な信奉者となり、1935年に起きた第二次エチオピア戦争ではその正当化に一役買っている。 1937年、ローマで心筋梗塞により死去。イタリアで国葬が執り行われた。弔意を示すため、世界中にある英連邦の官設無線局が2分間沈黙した。遺体はエミリア=ロマーニャ州のサッソ・マルコーニに埋葬された。なお、このコムーネは当時別な名前で呼ばれていたが、1938年にマルコーニにちなんで「サッソ・マルコーニ」に改称された。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にはマルコーニの葬儀を記念した像がある。
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