私生活と公的イメージ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/15 10:21 UTC 版)
「パーヴォ・ヌルミ」の記事における「私生活と公的イメージ」の解説
ヌルミは1932年から1935年まで、社交界の花形シルヴィ・ラークソネン(Sylvi Laaksonen)と結婚していた。しかしラークソネンは陸上競技に興味を持たず、生まれた子供マッティ(Matti)を走者になるよう育てようとしたヌルミに反対して1933年にAP通信に「彼が陸上競技に集中したことは最終的には私を離婚のために裁判所に行かせた」と述べた。マッティ・ヌルミは後に中距離走者になり、その後は独学でビジネスに進出した。ヌルミとマッティの関係は「窮屈」であるといわれている。マッティは父を陸上競技選手よりもビジネスマンとして尊敬しており、2人は競走について話し合ったことはなかった。走者としてのマッティは3000メートル競走の成績が最もよく、父と同じ成績を達成した。1957年7月11日に「3人のオラヴィ」(オラヴィ・サルソラ(英語版)、オラヴィ・サロネン(英語版)、オラヴィ・ヴオリサロ(英語版))が1500メートル競走の世界記録を更新した有名なレースではマッティ・ヌルミは個人ベストを出したが9位に終わり、父が1924年に作った世界記録よりも2.2秒遅かった。「ヴァンパイラ」(Vampira)で知られる女優のメイラ・ヌルミはパーヴォ・ヌルミの姪であるといわれたが、この親族関係は公式文書での証拠はない。 ヌルミはフィンランドのスポーツマッサージとサウナ入浴の慣習を好み、1924年パリオリンピックで酷暑の下でも好成績を出せたのはフィンランドサウナ(英語版)のおかげであると述べた。彼は15歳から21歳まで菜食を行ったが、それ以外では何でも食べた。ヌルミは神経衰弱とされており、「無口」、「無表情」、「頑固」などと言われた。親友がいたとは信じられていないが、たまには社交生活を行ってその小さな交友関係の輪で「皮肉的なユーモア」を披露したという。その絶頂期には世界中で最も有名なスポーツ選手とされていたが、ヌルミは世間の注目とメディアを嫌っており。後に75歳の誕生日のとき(1972年)に「世界的な知名度と名声は腐ったコケモモよりも価値が低い」と述べた。フランスのジャーナリストガブリエル・アノはヌルミのスポーツに対する集中を疑問視し、1924年にヌルミがこれまでになく「本気、無口、悲観的、熱狂的、そして集中している。彼の中の冷たさと強い自制により、彼が感情をあらわにすることは一瞬たりともなかった」と書いた。同時代のフィンランド人の間では一部が彼にスーリ・ヴァイケニヤ(Suuni vaikenija、「偉大な沈黙な奴」)というあだ名をつけ、ロン・クラークは後にヌルミがフィンランドの走者やジャーナリストにとってすら謎であると述べた:「彼らに対しても、本当の自分ではいなかった。彼は謎めいており、鵺的で、雲の中の神様のようだ。まるで全時間に演劇の役を演じているみたいだった」。 ヌルミは同僚の走者に対してはメディアより多くを述べた。彼はアメリカの短距離走者チャールズ・パドックと意見交換をしており、ライバルのオットー・ペルツァー(英語版)とは一緒にトレーニングすらした。ヌルミはペルツァーに敵を忘れるよう言った:「自分に打ち勝つことがアスリートにとって最も大きな挑戦だ」。ヌルミは心理的な強靭さを重要視したことで知られており、「精神が全てだ。筋肉など、ただのゴムの塊だ。私の精神があるから私がいるのだ」と述べた。競走路上にいるヌルミについて、ペルツァーは「彼の無感覚はまるで仏陀が競走路で滑走しているようだ。ストップウオッチを手に、1周また1周と(終点の)テープに向かい、数学テーブルの規則にしか従っていない」と述べた。マラソン選手のジョニー・ケリー(英語版)は1936年オリンピックではじめて憧れのヌルミに会った。彼はヌルミが始めには冷たかったが、ヌルミが彼の名前を聞いた後に割と長く話し合っており、「彼は私の手を握った――興奮した様子で。信じられない!」と回想した。 ヌルミの速さと性格のつかみどころのなさにより、「ファントム・フィン」(Phantom Finn)、「走者の王様」(King of Runners)、「無比のパーヴォ」(Peerless Parvo)などのあだ名をつけられた。一方、彼の数学における技術とストップウオッチの使用によりマスコミは彼を走る機械として描写した。とある記者はヌルミを「時間を消滅させるために作られた機械のフランケンシュタイン」と形容した。フィル・コージノー(英語版)は「ロボットが現代の霊魂のない人類を代表するようになる時代、彼自身が発明した、ストップウオッチでペースをつけるテクニックは人々に霊感を与えるのと同時に困惑させた」。大衆向け新聞ではヌルミに関する噂としては彼が「奇形的な」心臓を持ち、脈拍数が異常に低い、というものがある。ヌルミがアマチュアかどうかの論争の最中、ヌルミは「世界中の運動選手の中で最も低い脈拍数と最も高い提示価格を有した選手」であるといわれた。 フィンランドから遠く離れた日本においても、ヌルミは同時代において知られた存在であった。詩人の高村光太郎は1929年9月に書いた詩「或る筆記通話」に「ヌルミのぬ」という一節を入れている。
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