離婚と政治活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 02:44 UTC 版)
「エリーザベト・マリー・ペツネック」の記事における「離婚と政治活動」の解説
第一次世界大戦中は赤十字の看護婦として兵士の看護に当たった。1919年に夫ヴィンディシュ=グレーツとの離婚調停が始まり、1924年に別居した。法廷は子供全員の親権をオットーに与えたため、離婚調停後、エリザベートの元に警察が来て子供の引き渡しを求めたが、子供を取り上げられることに同情したオーストリア社会民主党の運動員たちが阻止した。これをきっかけに、社会民主党の指導者レオポルト・ペツネック(ドイツ語版)との同居が始まり、また社会民主党に入党して世間を驚かせた。エリーザベトは世間から「赤い皇女」と呼ばれた。 1938年、アドルフ・ヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された後、1944年8月22日にペツネックは逮捕され、ダッハウ強制収容所に送られるが、1945年6月に解放されてエリーザベトの元へ戻った。エリーザベトは第二次世界大戦中、ウィーンで亡命者の援助などをしていた。1948年にオットー・ヴィンディッシュ=グレーツと正式に離婚し、ペツネックと再婚した。 1963年3月16日、エリーザベトは79歳で亡くなった。墓石には名前も碑文も記されなかった。また、遺品や絵画はすべて国に寄贈するという遺言を残した。ハプスブルク家のものは国に返すべき、という考えに基づいて行なった事だった。
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