離婚と3度目の結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 09:29 UTC 版)
「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「離婚と3度目の結婚」の解説
グリスウォルドは詩人のアリス・キャリーと短期間浮気した後、ハリエット・マクリリスとの関係を追求した。元々「公になることを恐れ」、グリスウォルドの娘をシャーロット・マイアーズが愛していたので、シャーロットとの離婚を望んでいなかった。それでも1852年3月25日にフィラデルフィアの一般訴訟裁判所に離婚の申し立てをした。エリザベス・F・エレットとアン・S・スティーブンスがマイアーズに手紙を書き、離婚を認めないように勧め、またマクリリスにも彼と結婚しないように勧めた。グリスウォルドはマイアーズが離婚に同意するよう説得するために、彼女が彼を見捨てたという声明書に署名するならば、娘のシャーロットを傍に置いていてもよいとしていた。シャーロットがそれに同意し、離婚は12月18日に公のものになった。グリスウォルドはマイアーズあるいは娘に二度と会わないということになった可能性がある。マクリリスとグリスウォルドはそれから間もない1852年12月26日に結婚し、ニューヨーク市西23丁目196の家に入った。夫妻の息子ウィリアムは1853年10月9日に生まれた。 エレットとスティーブンスはグリスウォルドの元妻に手紙を書き続け、離婚を撤回するように勧めた。マイアーズが最後に折れて、1853年9月23日にフィラデルフィアで訴訟を起こした。しかし、裁判所は離婚の記録を失くしており、訴えを遅らせるしかなかった。その秋、グリスウォルドの問題に加えて、家でガス漏れから爆発と火災が発生した。グリスウォルドは大きな火傷を負い、まつ毛や眉毛を失い、手指の爪7本も失った。同年、15歳になっていた娘のエミリーがコネチカット州で死にかけた。彼女が乗っていた列車が跳ね橋から川に落ちた。グリスウォルドが現場に到着したときに、間に合わせの死体置き場に49人の死体を見た。エミリーも水中で認められたときに死んだと宣言されたが、医者が彼女を蘇生させることができた。1856年2月24日、離婚訴訟が裁判所に挙げられ、エレットとスティーブンスがグリスウォルドの性格について長々しい証言を行った。これにはグリスウォルドもマイアーズも出席せず、訴訟は棄却された。この厳しい試練に当惑したマクリリスはニューヨーク市のグリスウォルドの元を離れ、家族と共にメイン州バンゴーに移転した。
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