徳川家康の名前の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 04:48 UTC 版)
「光明寺城 (尾張国)」の記事における「徳川家康の名前の由来」の解説
光明寺城のすぐそばにある安照院光明寺は白鳳年間に建立された、1300年以上の古刹である。 この地に伝わる伝説によると、桶狭間の戦いの後の1563年、織田信長と松平元康(徳川家康)は攻守同盟を清洲城で締結、この後酒盛り開かれた。織田信長は酔い覚ましにと、松平元康とともに馬を走らせ、光明寺城へ向かった。この城から北にある稲葉山城を見た二人は、「美濃を制する者が天下を制するか」とつぶやいたという。 織田信長は松平元康に、光明寺城の眼下にある安照院光明寺の僧侶、青井意足を紹介した。この青井意足は八幡太郎義家の軍法を伝える人物であり、織田信長もこの軍法を手に入れたかったのだが、織田家が平家の出の為、断られていたのであった。信長は同盟締結の礼として、源氏の出である元康に紹介したのであった。 元康は数日間、光明寺に滞在し、青井意足より八幡太郎義家の軍法を授かった。この軍法を継ぐ者は名前に“義”か“家”を継ぐ事になっており、今川義元からもらった名前を変えたいと考えていた元康は、“元”を“家”に変え、徳川家康を名乗るようになったという。
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