徳川家康の浜松居城時代
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元亀3年(1572年)12月、浜松城の徳川家康は自領を進軍しつつあった武田信玄の軍勢に挑んで三方ヶ原の戦いに敗れた。家忠と陣代松井忠次麾下の東条衆は家康を護って奮戦したが多数の死傷者を出した。元重は家忠を扶けて退却するが甲州勢はなおも追撃を懸けてきたために、家忠は危機に瀕する。にわかに元重は取って返し敵を防いだので辛うじて家忠は虎口を脱した。 天正3年(1575年)5月、長篠の戦いの際には鳶ヶ巣山城の武田勢を攻める、酒井忠次率いる急襲部隊に元重は松平康親に属して参加、城将・武田信実も城門より迎撃に出るが、元重は城に登り火を放ったという。結果、城は陥落し信実も戦死した。 しかし、武田勝頼は騎兵を掛川城と諏訪原城の間に出して徳川軍の往来を遮断し脅かした。そこで家康は同年、新坂八幡に砦を築かせ、元重を選んでこれを守備させた。この時、騎士30騎・鉄砲足軽100人を元重に付属せしめた。元重はこの新坂砦より幾たびも出軍して武田勢を敗走させたため、遮断された徳川軍の連絡は回復した。家康は新坂・常戒寺の2村をこの褒賞として元重に給与した。
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