徳川家康と明王朝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 徳川家康と明王朝の意味・解説 

徳川家康と明王朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)

日中関係史」の記事における「徳川家康と明王朝」の解説

秀吉の死で幼少5歳であった息子の秀頼を五大老補佐する体制敷かれるその中で台頭したのが徳川家康であった1600年豊後漂着したオランダ船に乗り組んでいたヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス家康貿易外交顧問として雇い南蛮貿易積極的に奨励した。同1600年関ヶ原の戦い石田三成率い西軍勝利した家康は、1603年征夷大将軍就任して江戸幕府を開く。太平世の到来で高級衣料である支那絹に対す需要増大し、明産などの輸入生糸糸割符仲間独占購入販売させる糸割符制を導入朱印船貿易実施した。これ以後1635年まで350隻以上の日本船が朱印状得て海外渡航した明からも民間人多数来日し九州中心に唐人町形成された。しかし、かつて倭寇苦しんだ明は日本船と明船の出入港を禁止文禄・慶長の役険悪な関係となってからはなおさらであった。両商船明国官憲監視及ばない東南アジア諸港へ合法的に赴いて彼の地合流、「出会貿易」で明産の生糸や絹を売り買いしていた。明製品以外にも武具使用される鮫皮鹿皮砂糖など東南アジア産品輸入行われた日本からは銀・銅銭硫黄・刀などの工芸品輸出された。当時、明では銀が不足していたため朱印船主要な交易相手である明商人は銀を欲した。しかも当時日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。 家康将軍職世襲制敷いて1605年息子秀忠職位譲り、自らは大御所として振舞う。また、薩摩藩島津氏武力により首里城開城させ琉球王国支配下に置き、廃藩置県後琉球処分まで琉球日明日清両国属することになる。1612年直轄領禁教令が、翌年には全国適用範囲広がった大坂の陣で「豊臣氏滅ぼした翌年1616年家康死去する

※この「徳川家康と明王朝」の解説は、「日中関係史」の解説の一部です。
「徳川家康と明王朝」を含む「日中関係史」の記事については、「日中関係史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「徳川家康と明王朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳川家康と明王朝」の関連用語

徳川家康と明王朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳川家康と明王朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日中関係史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS