徳川家康との対立、大坂の陣とは? わかりやすく解説

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徳川家康との対立、大坂の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:19 UTC 版)

淀殿」の記事における「徳川家康との対立、大坂の陣」の解説

家康豊臣家蔵入地関ヶ原の戦い恩賞として諸将や自らで分配し豊臣家支配地を減らすことになる。淀殿は秀頼の後見人として、家康五大老五奉行去った大坂城主導権を握る江戸武家政権構築し始めた家康とは対立暗に臣従求める秀頼の上要求などを拒否しそのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害する主張した慶長19年1614年)、関東との交渉役・片桐且元淀殿侍女大蔵卿局家康意図解釈齟齬きっかけとして大坂の陣勃発淀殿武具着て3、4人の武装した女房従え番所武士に声をかけ激励していたが(『当代記』)、期待した諸大名加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和指示する。しかし、翌慶長20年1615年)の再戦大坂夏の陣)で大坂城落城し、秀頼や大野治長と共に自害した墓所京都市東山区養源院大阪市北区太融寺戒名大虞院英厳大禅定尼大虞花顔妙香大広院殿英嵓と伝わる。 淀殿最期目撃した者の証言記録など存在せず遺体確認されなかったため、秀頼と同様に女に逃亡生存説などの伝説生まれようになった落ち延びた先としては、島津氏頼って薩摩国落ち延びた説や上野国厩橋まで遁れてきたという説がある。

※この「徳川家康との対立、大坂の陣」の解説は、「淀殿」の解説の一部です。
「徳川家康との対立、大坂の陣」を含む「淀殿」の記事については、「淀殿」の概要を参照ください。

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