徳川家康との逸話とは? わかりやすく解説

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徳川家康との逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)

藤堂高虎」の記事における「徳川家康との逸話」の解説

高虎は、豊臣秀長意を受け家康直接手紙やりとりした。これらのなかには家康高虎個人宛てた陣中見舞いもあり、後年両者親密な関係の基礎が、この時代築かれていたことが察せられる元和2年1616年4月1日病状悪化した家康堀直寄呼び、「国家万一のことがあれば高虎先鋒とし、彦根井伊二陣とせよ。汝はその中間備えて横槍をせよ」と遺言したとされる。『忠勤録』には国に何かあるときは高虎一番槍に、二番井伊直孝にと命じた。そのためか、藤堂家井伊家幕末まで転封がなかった。 高虎自分死んだ嫡子高次伊勢から国替えしてほしいと家康申し出た家康理由訊ねると「伊勢徳川家要衝でしかも上国でございますこのような重要な地を不肖高次お預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こって憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという。 秀忠ある日開いた夜話会で、高虎泰平のときの主の第一用務家臣らの器量見抜き適材適所につけて十分に働かせることと述べた次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人讒言聞き入れるようなことになれば、勇者智者善人を失うであろう語った家康はのちにこの高虎言葉聞いて大い感動したという。 元和2年1616年)、他界する10日前に家康高虎枕頭招き、「世話になったが、来世ではそなたと会えぬのがつらい」と涙したという。その家康言葉高虎は「来世でも大御所様に仕えるつもりです。私は日蓮宗ですが、大御所様の宗旨である天台宗改宗しますので、来世でもお仕えすることができます」と答えたとされる(『西嶋八兵衛留書』)。

※この「徳川家康との逸話」の解説は、「藤堂高虎」の解説の一部です。
「徳川家康との逸話」を含む「藤堂高虎」の記事については、「藤堂高虎」の概要を参照ください。

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