徳川家康との逸話
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高虎は、豊臣秀長の意を受けて家康と直接手紙をやりとりした。これらのなかには、家康が高虎個人に宛てた陣中見舞いもあり、後年の両者の親密な関係の基礎が、この時代に築かれていたことが察せられる。 元和2年(1616年)4月1日、病状が悪化した家康は堀直寄を呼び、「国家に万一のことがあれば高虎を先鋒とし、彦根の井伊を二陣とせよ。汝はその中間に備えて横槍をせよ」と遺言したとされる。『忠勤録』には国に何かあるときは高虎を一番槍に、二番槍は井伊直孝にと命じた。そのためか、藤堂家と井伊家は幕末まで転封がなかった。 高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康が理由を訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという。 秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという。 元和2年(1616年)、他界する10日前に家康は高虎を枕頭に招き、「世話になったが、来世ではそなたと会えぬのがつらい」と涙したという。その家康の言葉に高虎は「来世でも大御所様に仕えるつもりです。私は日蓮宗ですが、大御所様の宗旨である天台宗に改宗しますので、来世でもお仕えすることができます」と答えたとされる(『西嶋八兵衛留書』)。
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